2017年5月26日金曜日

小説を読みます

近ごろブログの更新頻度が落ちたのは、小説を読むようになったからなんです。
ずいぶん長いこと小説なんて読んでなかったから、なつかしくて新鮮です。

高校時代までは、小説をよく読んでいました。
進学校だったので、岩波文庫をたくさん読むのが偉い、みたいな価値観があったし。
外国文学が多かった。
ヘルマン・ヘッセと川端康成が好きでした。
ヘッセの遺作の豪華本みたいなのも買ったくらい。
とにかく、過去の名作をたくさん読みました。

それが、音楽が人生の中心になって以来、もう20年も前ですが、本を読むといえば、音楽関係のものばかりになりました。
図書館の「音楽」の棚にある本を片っ端から、知らない音楽家の伝記や、触ったことのない楽器や馴染みのない音楽ジャンルについて書かれた本まで、手当たり次第に借りるようになって、小説を手に取ることはなくなりました。
たまに読むことがあっても、それは音楽絡み。
音楽を扱った小説や、ブラック・ミュージックが好きなので黒人文学はかなり読んだけど、それは純粋に小説を読みたい、という気持ちとは違いました。


ずっと音楽ばっかりだったのが、去年くらいから、また映画を見るようになりました。
そして最近になって、小説をも読みはじめました。
三島由紀夫や太宰治を読み返してみたり、東野圭吾もはじめて読みました。
だんだんなんとなく、現代の小説を読みたくなりました。

現代の小説は、あまり通ってこなかったんです。
家を出たハタチごろ、まだ音楽をやる前の数年間に、少し読んだくらい。
そのころ、山田詠美が好きでした。
そうだ大好きだったな、と思い出して、読み返してみたくなりました。
図書館で、『風味絶佳』を借りました。
実はこの本、アメリカ留学中、夏休みで帰国したときに、買って読んだことがあったんです。
とても感動して、アメリカに戻るときに持って行ったのに、空港かどこかに置き忘れてしまって。

短編集です。
久しぶりに読み返して、あらためて心をうばわれました。
例によって、内容はほとんど覚えていなかったので、はじめて読む感覚で味わいました。
文章が、いい。
情感があります。
ページをめくるのがもったいないほどです。
山田詠美の作品の中でも、そしていままで読んだ本の中でも、ナンバーワンかもしれない。


約20年のブランクのあとで、小説を読む楽しさを、知った気がします。
そうしてみると、読みたい本がたくさんある。
以前はブログを書いてた時間に、小説を読むようになりました。
しばらくは、こんなペースが続くでしょう。
どうかよろしく。

2017年5月21日日曜日

映画って、ストーリーだけじゃないでしょ。

ネットで映画の感想を探すと、たいていストーリーのことしか書いてない。
映画感想ブログなんつって、あらすじばっかりが長々と書いてある。
小学生の読書感想文かって。

ストーリーの良し悪しだけなら、映画じゃなくたっていい。
テレビだって小説だってマンガだっていいじゃん。
それ以外のいろんな要素が絡み合って、映画でしか味わえないものがあって、だから僕は映画が好きなんだけど、どうやら多くの人はストーリーにしか興味がないみたいです。
どうせ話がかみ合うわけないから、誰かに「映画が好き」と言われても、「俺も好き!」なんて返すことはせずに、慎重に距離をはかることにしています。
みんな大好きな”衝撃のラスト!”とか、まったく興味ないしね。


いままでの映画で心に残ってるのは、ストーリーじゃなくて、特定のワン・シーンであることがほとんどです。
セリフがない、たとえば風景が映るだけであっても、特別な情感が残るシーン。
いまパッと思いつくのは『シェルタリング・スカイ』の砂漠で抱き合う二人を空から撮るシーン、『マンハッタン』の夜明けの橋の下、『存在の耐えられない軽さ』の白く消えて行くラスト、『レイジング・ブル』の最後の、画面にすら映っていないシャドー・ボクシング、『バイバイ・モンキー』の冒頭のマストロヤンニの泣き顔のアップ。
どれもセリフのないシーンです。
『バイバイ・モンキー』なんて、ストーリーすら覚えてないもん。

そういえば、顔のアップで思い出すのは『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』の、デ・ニーロの顔を映して終わるラスト。
あの表情は、なんなのか。
説明できないからこそ、頭を超えて感情に刻まれるんですよね。
あと、きのう見た『カフェソサエティ』のラストのジェシ・アイゼンバーグの顔のアップも素晴らしかった。
表情というかもはや目と顔の緊張感だけで、いろんなものが伝わってくるんだもん。
いい役者って、ただセリフを覚えてそれっぽく言うだけじゃなくて、言葉やストーリーで説明できないものを表現することができるんですよね。
たとえば『冷たい熱帯魚』なんて、でんでんと吹越満じゃなかったら、つまんない映画だったと思うし。
ストーリー以外のそういう面白さが分からないと、映画の魅力って半減するんじゃないかな。


映画によっては、ストーリーを追うだけじゃ面白さの分からないものもあります。
たとえば『コットンクラブ』のラスト。
非現実的なシーンだと分からずに、2人で逃げてハッピーエンド、っていう風に解釈しちゃって、安易な終わりかただな、なんて思う羽目になる。
もっと有名な映画だと『インターステラー』もそう。
あのラストも、非現実だと解釈できるようになってる。
しかも、誰かの空想、などときっちり説明できない、あいまいなもの。
その、あいまいなのが、いいんじゃん。

映画じゃなくても、たとえばマンガでも、有名な『あしたのジョー』のラストのコマ。
ジョーが死んだのかどうかなんて考えてもちっとも面白くない。
あの、あいまいな、言い切らない、説明しないのが良いんじゃないですか。
『デビルマン』もそう。
解釈不能なラストが、名作度を高めてる。
ただ、このマンガの場合、作者自身が後に書き足して陳腐な説明を加えて駄作にしちゃったという、おかしなケースですが。
『デビルマン』は、書き足しのない「完全復刻版」を読まないとダメですよ!


言葉で説明できない感動っていう、映画ならではの魅力は、少なくともネット上の「映画ファン」の人たちには、アピールしないみたいです。
もったいないな、と思います。
映画ってもっと、人生を変えるくらいに面白いのに。
僕は『父の祈り』の終盤のダニエル・デイ・ルイスの表情に打たれて、その場で大学辞めて、本当に人生変わりましたからね。
そんな風にして映画に出会えた僕は、ストーリー重視の「映画ファン」よりもずっとラッキーだと、思ってます。

2017年5月19日金曜日

『マーク・リボー&デビッド・イダルゴ』!!

マーク・リボー&デビッド・イダルゴのライブにいってきた。
とてもよかった。
お互い1曲づつ交代で歌うんだけど、曲もその場で決めてるような、ゆるいライブ。
演奏しながら曲を探ってたり、どうやって終わろうか考えながら目を見合わせてる。
主催の麻田さんが開演前の挨拶で、「往年のロックスターが年老いて場末のバーで演奏してるような〜」みたいなことを言ってたけど、まさにそんな感じでした。
もちろん、ほめ言葉です。
あんな風に気負わずに自由にライブやれたらいいなー楽しそうだなー。
そして、こんなラフで生き生きした演奏を楽しめるお客さんが、クアトロ満員になるくらいいるってことは、東京の音楽ファンも捨てたもんじゃないと思いました。


マーク・リボーを知ったのはたぶんトム・ウェイツの『レインドッグ』です。
調子っぱずれのようにも聞こえる、キャプテン・ビーフハートを連想させるような、素晴らしく個性的なギター。
それ以来、好きなギタリストと聞かれるたびに名前をあげていたくらい。
昨日のライブではいろんなスタイルの曲をやったので、ギタリストとしてのすごさがあらためて実感できました。
音楽を、メチャクチャ聞いて研究してる人なんだろうな。
どんな曲調でも、ちゃんとそのジャンルの背景というか伝統というか、ツボを押さえた演奏をする。
けっして奇をてらったことはしないのに、強烈に個性的。
なんなんだろう。
音色なのか、発音なのか、タイミングなのか。
ジャズの語法で乗り切る「上手い」ミュージシャンとは、ぜんぜん違います。

そして、デビッド・イダルゴを見れたことが、単純にうれしかった。
ロス・ロボスは、グレイトフル・デッド、NRBQと並ぶ、大好きなバンドのひとつなんです。
でも、ライブがすごい!って評判はさんざん聞いてたのに、何度か来日してるのに、見に行ったことないんですよ。
今回はバンドじゃないけど、はじめて見た、デビッド・イダルゴ。
ギターのフレーズもいちいちカッコいいし、歌もすごくよかった。
ロス・ロボスって、ボーカルがすごくいいと思ったことは、実はないんです。
それが、実際に見ると違うもんですね。
とってもいいミュージシャンだという、分かりきったことを、生で見て実感しました。

驚いたのは、『ラテン・プレイボーイズ』から2曲も演奏したこと。
あれって、楽曲や演奏だけじゃない、サウンドも含めての作品と思っていたので、まさか弾き語りのライブでやるとは。
大々好きで何度も何度も聴いたアルバムですからね、そりゃ興奮しましたよ。
しかも、ライブの一曲目が "Manifold De Amour" だったんですが、イダルゴが弾くのは、なんとチェロ!
その一曲のためにチェロを用意していて、しかも決してチェロプレイヤーとして達者なわけでもなくて、それがライブのオープニング・ナンバーだなんて。
その気負いのないスタンスが、素敵です。


2人とも、上手く演奏する、とか、ミスをしない、とか、そんなレベルにはもはやいないんですよね。
キャリアのあるミュージシャンだし、もっと「上質」な演奏だって、できたでしょう。
でも、音楽って、そういうことじゃない。
人生を語る、言葉のない会話のようなもの。
それができるミュージシャンて、本当にあこがれます。
演奏のはしばしから二人の体験してきた音楽の歴史が聴こえてきて、さらにそれを共有できるお客さんがいて、とても幸福なライブだったと思います。
本当は、もっとカジュアルなお店で見るのがいいんだろうけど、まあ来日ということでは仕方ないですよね。

素晴らしいライブでした。
二人を呼んでくれたトムズ・キャビン、麻田さん、ありがとうございました!

(写真はTom's Cabinより)

2017年5月9日火曜日

『アーティスト』!!

『アーティスト』を見ました。

素晴らしかった!
内容からして、間違いなく好きだろうと予想はしていたけど、まさかここまで素晴らしいとは。

2012年に米アカデミー作品賞を取った、フランス製作の白黒サイレント映画です。
舞台は、映画がトーキーに移行していく時代のハリウッド。
落ちぶれていくサイレント映画のスターと、トーキーの新進女優のお話。
はっきり言って、ベタなストーリーです。
でも、その王道・定番さが、いい。
ツボを押さえたストーリーの上で、映像で魅せる映画です。

セリフがないことが、効果的です。
例えば、ケガをした主人公のベッド脇から、ヒロインが話しかけるシーン。
おそらく自分の毎日の出来事を、夢中で話して聞かせている。
話の内容がわからないぶん、イキイキと楽しそうな表情に目がいきます。
続いて、聞いている主人公の表情が映されると、とっても優しい顔をしてる。
幸せな気持ちが、伝わってきます。
このシーンにセリフがあったら、会話の内容に意識がいってしまう。
でも、言葉の情報がないおかげで、そこで二人がどんな気持ちでいるか、っていうことだけが、見えてくる。
実際に、好きな人と話すときって、内容は重要でなかったりしますからね。

そんな素敵な場面がたくさんあります。
ふたりが初めて映画で共演する、パーティのシーン。
主人公がダンスのパートナーを変えていって、彼女と踊る番になると、笑ってしまって何度もNGを出してしまう。
どんな会話をしてるのかわからないけど、音楽が流れて二人の姿があるだけで、距離が縮まっていく様子が手に取るように感じられて、涙が出そうになりました。
もしセリフがあったら、ここまで胸に迫ることはなかったと思います。

圧倒されたのは、ラスト近く、銃を持った主人公をヒロインが止めに入るシーン。
それまで流れていた音楽が突然なくなって、無音になり、必死で説得する彼女主人公のやりとりが、ずっと無音の中で映される。
セリフが、そして音がないということが、こんなに胸にせまるなんて。
このシーンの間、僕は息もできないくらいの感動にのまれていました。
ある場面、ある箇所、というのではなくて、シーンの間ずっと心が揺さぶられ続けるなんて、はじめての経験です。
サイレントの力強さに、打ちのめされました。


中盤からは、もうトーキーの時代になっていますが、映画自体はサイレントのまま進んでいきます。
いよいよ音が付くのは、ラストのダンスシーン。
まずはステップの足音が聞こえてきて、ハッとします。
そして、最初に発せられる「声」は、躍動感あふれるダンスの最後、画面に向かってポーズを決めた2人の、なんと、息切れの音!
こういう、言葉では説明できない感動こそが、映画の醍醐味です。
しかも、このシーン自体が、サイレントからミュージカルへと続く古典映画へのリスペクトになっているのだから、打ちのめされます。

このシーンに限らず映画全体に散りばめられた過去の作品へのオマージュについては、賛否あるようですが、僕は好きです。
ただ引用してるのではなく、敬意が感じられて、その愛情が見る側にも伝わるから。

そして、単なるハッピーエンドではない、懐古趣味なんかではない、心に残る終わりかた。
感動に力がぬけて、疲れ果てたような心地よさが襲ってきました。
こんな風にして、疲れるほどに心が動かされる映画は、そうはありません。
他に思いあたるのは、『アンダーグラウンド』『ペーパームーン』『蜘蛛女のキス』くらいかな。

白黒・サイレントの力強さ。
隅々まで情感にあふれた、素晴らしい作品です。
見てよかった。


2017年5月2日火曜日

N.O.生活24 - Michael White とニューオリンズ・ジャズ

現在のニューオリンズでいちばん尊敬するミュージシャンは、マイケル・ホワイトです。
ニューオリンズを代表するクラリネット・プレイヤー。
定期的にN.Y.に呼ばれてウィントン・マルサリスのバンドで演奏し、エリック・クラプトンやポール・サイモン、タジ・マハールといったポピュラー・ミュージックのスター達からも録音メンバーに指名される。
CNNなどテレビ曲がニューオリンズを扱うドキュメンタリーを作るときにも、マイケルに取材をします。

しかし、ニューオリンズの音楽シーンでは、マイケルの評価は高くありません。
人気はあるんですが、それは一般の人々の間でのこと。
ミュージシャンからの評価は、はっきり言って低いんです。

理由のひとつは、マイケルはトラディショナルなスタイルしか演奏しないこと。
古いスタイルのニューオリンズ・ジャズをやるミュージシャンは、もはやほとんどいません。
現在のニューオリンズで聞かれるのは、スイング・ジャズ風のものばかりで、伝統的な泥臭いスタイルは好まれない。
なぜなら、いわゆる「ジャズ」的な要素がないから。
音楽的にシンプルすぎるので、一段下に見られてしまうんです。

もうひとつの理由は、マイケルが上手いプレイヤーではないことです。
実際、ピッチは悪いし、タンギングも粗いし、楽器もきちんと鳴っていない。
特にピッチとタンギングについては、クラリネット以外の楽器のミュージシャンであっても、一聴してわかるくらいです。
自身のアルバムの場合、レコーディング後の編集段階で、大幅なピッチ修正を行うとも言われています。

ニューオリンズのミュージシャンの多くはジャズ志向です。
ジャズとはテクニックが重視される音楽です。
マイケルはテクニックで勝負する音楽家ではないので、レベルの低い音楽をやってるヘタクソな奴、と思われているんです。 


マイケルへの評価は、とても象徴的です。
全米、そして世界的にも、ニューオリンズを代表するクラリネット奏者。
それが現地の音楽シーンでは、ヘタな奴と思われている。
一般の音楽ファンの価値観と、ニューオリンズ音楽シーンの価値観が、かけ離れている。
世界中の人々が愛するニューオリンズのイメージは、現地にはもう存在していないということです。
人々が惹かれるのは、テクニカルな部分ではありません。
ニューオリンズ独特の、リズムとハート。
現地でそれを体現しているのは、もはやマイケルと、その相棒のトランペッター、グレッグ・スタッフォードだけなんです。

伝統的なニューオリンズ・ジャズへの思いを誰とも共有できない、という悩みを、マイケルに話したことがあります。
マイケルは言います。
自分のライブはギャラが高いから、いいミュージシャンを雇って、リズムを指示して演奏させることができる。
彼らはいい仕事をするけれど、自分でレコードを買って家でも聴いてるとは思えない。
ニューオリンズ・ジャズに関心のあるミュージシャンは、もはや自分とグレッグ・スタッフォード以外は、1人も残ってないんだよ、と。
ズバリと言い切られて、ショックでした。
マイケルでさえ、一緒に音楽を共有できるミュージシャンを集めることができない。
それじゃあ、僕がいくら探したって、出会えるはずがありません。


マイケルも、音楽シーンでの自分の評判を知らないはずはないでしょう。
でも、何を言われようと、自分のやっていることに自信を持っている。
子供の頃から年上のミュージシャンに混じって演奏しながら音楽を体得してきた、という自負。
伝統を受け継ぐ、という意志。
そして、町の人々の踊る姿や話す様子を思い浮かべながら演奏している、と言う、それは、ニューオリンズ・ネイティブでしか体現できないことです。

楽器のテクニックが磨かれてないのは、その必要がないからじゃないかと、思います。
ニューオリンズ・ジャズをやるのに、なめらかなフレージングや、早いパッセージは不要です。
ピッチが合ってるかどうかも、重要ではない。
いやもちろん、上手いに越したことはありません。
でも、それよりも、もっと考えるべきことがたくさんあって、そうしていると、技術面のことへ向ける意識が少なくなるんですよ、きっと。
それは、空気感だったり、伝統的な「訛り」のことだったり、さらに人々の踊る姿なんていう音楽と無関係なことまでイメージしていたら、音の細部に向ける集中力は、そんなにたくさん残らないんじゃないか。
マイケルと話し、その演奏を聴いて、そんなことを考えます。


マイケルの音楽は素晴らしいと思います。
録音では、アラが目立つこともあるけれど、ライブは本当にスピリチュアルで感動します。
この感動を共有できるミュージシャンがニューオリンズにはいない、この音楽の価値がニューオリンズの音楽シーンでは評価されないという事実。
僕が惹かれたニューオリンズ・ジャズの伝統は、マイケルとグレッグがいなくなったら、途絶えてしまうのかもしれません。


2017年4月28日金曜日

平和な家庭にロックは似合うか

駅のロータリーで、ガンガンに激しいロックが聞こえてきたので振り返ると、乗用車から小学生の子供と母親が降りてくるところでした。
運転席にいるのは、スーツを着た40代くらいの男性。
ごく普通のサラリーマン一家に見えます。
車から流れるハードなロックと平和そうな家族の姿の組み合わせに、どうにも違和感を感じてしまいました。

ロックの好きな40代サラリーマン。
学生時代には、バンドやってたのかもしれない。
ちょっとモテたりして。
そこそこいい大学からそこそこいい会社に就職して、悪くない暮らしをしてる。
友達の中にはいまでも音楽やってるやつもいて、年一回くらい一緒に飲むこともある。
子供がロックよりもアンパンマンやポケモンに興味を持つのが、ちょっと不満。

そういう人は、きっとたくさんいるはず。
でも、妻と子供を送る車でロックをガンガンかけるのは、めずらしいんじゃないか。

じゃあ小さな音なら、いいのか。
想像してみると、それでもまだ引っかかる。
たしかに、大音量ってことも気になるけど、それが問題ではないのかもしれない。
これがジャズやクラシックやJpopだったら、音が大きくても、ここまでの違和感はないんじゃないか。
つまり、激しいロックは、平和なサラリーマン家庭には似合わない、っていうことなのか。

僕なんか、会社に勤めた経験もないし、サラリーマンの友達も多くはない。
会社勤めの人たちがどんな音楽聞いてどんなふうに生活してるのか、何も知らない。 
かわりに、ロックには詳しいです。
詳しいので、ロック=不良みたいなステレオタイプのイメージは、持っていません。
ロックやパンクを聞いてる人にだって、常識と社会性のあるマジメな人たちは多いってことも、知ってます。

そんな僕でも、平和なサラリーマン家庭のイメージとロックの組み合わせに、違和感を感じてしまう。
なんてことだ。
俺もしょせん偏見まみれなのか。
あらゆるバイアスや偏見から自由になりたいと、ずっとやってきたのに。

そして、そう思ってる自分ですら偏見から逃れられないんだから、そんなこと考えてないたくさんの人たちが、ミュージシャンを白い目で見ることは、とっても当たり前のことなんだよなー。
と、あらためて気づいたのでした。

2017年4月24日月曜日

GWO・町田謙介・井上民雄

土曜は町田謙介=マチケンさん、日曜はStumble Bumの井上民雄さんと演奏しました。
しかもマチケンさんにはGWOのギターもお願いしたので、GWO、マチケン、井上民雄、というスタイルの違う3つのライブをやったわけです。

GWOは、どれだけボーカルに近づけるか、というのがテーマです。
今回は、マチケンさんの極上のバッキングに乗って、まさに「歌うような」演奏ができました。
リハもろくにしてないのに、全体の完成度はかなり高かった。
さすがマチケンさん。

続くマチケンさんが主役のステージは、よりセッション的なものでした。
マチケンさんのミュージシャン・シップが高く、こっちも一瞬も気が抜けない。
レパートリーもバラエティに富んでいるので、曲ごとに僕のアプローチも変わる。
やってて気づいたけど、曲によって、バイオリンやオルガンやホーンセクションの音が、アレンジとして頭の中に鳴って、それをクラリネットに置き換えてるんですよね。
過去に聞いてきたルーツ・ミュージックの影響です。
こういう、クラリネット奏者らしからぬアプローチが、僕の個性なのかもしれません。

民雄さんとのライブは、楽曲が素晴らしく完璧なので、余計な音が出せない。
いかに邪魔をせずに曲のイメージを広げるか。
こんなに緊張感のあるライブは久しぶりでした。
そして、オリジナル以外に、 ブラインド・ブレイクなどのカバーをやりました。
カントリー・ブルースのボーカル・パートを、クラリネットに置き換える、という試み。
GWOのときの十分の一くらいの音量で、もちろんアドリブなんかナシで、淡々と吹きます。
100年前の音楽を100年前の楽器でやってるんだけど、これ、最先端ですよ。
他にやってる人いないもん。


僕はもともと、ニューオリンズ・ジャズのスタイルのクラリネット奏者です。
でも、いつの間にか、変わったことばっかりやるようになってしまった。
いまでは、一般的な管楽器奏者がやるような(いわゆる「ジャズ」寄りの)演奏は、月イチくらいしかありません。
いいのか、わるいのか。
はたして自分は、クラリネット・プレイヤーと名乗っていいのか。
もはやミュージシャンではないような気にすらなります。

そう、GWOを始めてから、このユニットだけは毎回ライブレポートを書いてたんですが、それももうこだわらなくていいかな、と。
もはや自分の音楽の主軸がどこなのか、わからないので。
全国のGWOライブレポートファンの皆様には申し訳ありませんが、今後はより気の向くままに、やっていきます。
いろんなことを。