2017年7月17日月曜日

N.O.生活26 - ニューオリンズ・ジャズ in トロント

大学最後の冬休み、友達を訪ねて、カナダに行きました。

トロント在住のトランペット奏者、パトリック。

若いベーシスト、タイラー。

同じく若い、トロンボーン奏者のリンジー。
 
出会いは、ニューオリンズで春に開かれるフレンチクォーター・フェスティバルでした。
有名なジャズ&ヘイテイジ・フェスティバルと違って無料で、しかも、町の中心部で、広場や通りにステージを組んで、出演はほぼ地元のミュージシャンのみ。
世界中からニューオリンズ音楽ファンが集まって、ミュージシャン同士の交流も盛んです。

彼らは、伝統的なニューオリンズ・ジャズに魅了され、毎年カナダからやって来ているといいます。
渡米後、誰ともニューオリンズ・ジャズへの想いを共有できずにいた僕はうれしくて、宿を訪ね、音楽を聞き、語り、音を出して、フェスティバル期間中ずっと一緒に過ごしました。
そして、カナダに遊びに行く約束をして別れたんです。


トロントでは、パトリックの家に泊まりました。
パトリックは「Happy Pals」というニューオリンズ・ジャズのバンドを率いています。
Grossman's Tavernという、日本でいえば広めのカフェ・レストランのような店で毎週末、なんと40年以上もライブを続けているんです。


そして、そこでライブを見たタイラーやリンジーのような若者たちが演奏に加わっていき、小さいけれど強固なニューオリンズジャズのコミュニティが出来上がっています。

おどろきました。
日本でも、そしてニューオリンズでも、若いミュージシャンは古い泥臭いスタイルに興味がありません。
みんなもっと「ジャズ」寄りの、ソロやアドリブを重視した、洗練された音楽をやりたがる。
それが、ここトロントでは、パンク・バンドに魅了されるような感覚で、若者がニューオリンズ・ジャズのバンドに熱狂している。
そもそも、パトリックの世代のメンバーも、ニューオリンズに行ったときにKid Thomasの演奏に衝撃を受け、バンドをはじめたそうです。
そして、それを見た若者がまた衝撃を受けて楽器を手にする。
そんな幸福な連鎖が起こっているなんて、奇跡のようです。


Happy Palsは、まさに往年のプリザベーション・ホール・ジャズ・バンドのような、ゴツゴツした手触りのバンドです。
僕は一度体験しただけですが、週末のライブはいつも盛り上がるといいます。
それも、お客のほとんどは、マニアックな音楽ファンなどではなく、町の普通の人々。
老若男女がつどって、酒を飲みながら音楽を楽しみながらダンスをしながら、毎週末を過ごしているんです。

ニューオリンズ・ジャズは、人々のための音楽、躍らせるための音楽だ、と言いますが、それは昔のこと。
今ではニューオリンズジャズも洗練され、鑑賞にも適した音楽になっています。
もちろん、いまの若手が好む新しいスタイルのジャズでも、踊ろうと思えば踊れます。
が、踊る気で集まったのではない、そこに居合わせた人々までが自然と体を揺らすような強烈な吸引力は、もはやありません。
古いスタイルのニューオリンズ・ジャズには、それがある。
だって、鑑賞するためではない、ビートの音楽だから。
以前、マイケル・ホワイトが海外のジャズ・フェスティバルに出た時の話が印象的でした。
バンドのベーシストがいわゆる「ジャズ」のリズム感で演奏していたのを、マイケルが古いスタイルのリズム感を示して、音数を減らしダウンビートだけ弾くように直させたとたんに、それまでじっと聴いていた観衆が踊りだした、と言うんです。
たぶんそういうことが、Happy Palsのライブでは起こっている。
ニューオリンズ・ジャズのビートの力を目の当たりにして、感動しました。


滞在中、Happy Palsのライブ以外にも、ダンスの集まりや小さなパーティでパトリックと演奏しました。
彼のトランペットのスタイルは、まったくブレない。
いわゆる営業仕事のような場面でも、キッド・トーマス直系のシンプルでラフな吹き方で通します。
そして、お客もみんなそれを歓迎するんですよ。
だってキャッチーだし、盛り上がる。
欧米のお客って、「ジャズ」「ボサノバ」みたいなステレオタイプを期待することがなくって、いいと思えば素直に反応しますからね。
この音楽は、けっして日本で思われてるような地味でマニアックな老人向けのものではないことを、実感しました。
先入観なく耳を向けるなら、モダンジャズよりもはるかに多くの人に受け入れられるはずです。


パトリックはそのことに自覚的です。
ニューオリンズのスタイルを、もっとポピュラーにしていきたい、と熱く語ります。
トラディショナル・ナンバーだけではなく、トム・ウェイツやジョニー・キャッシュの曲もレパートリーに加えています。
昔だってキッド・トーマスは、エルヴィスやファッツ・ドミノの曲をやってたわけですからね。 
ライブは、お客を楽しませることをよく考えていて、マニアックな音楽にありがちな発表会のような雰囲気とは対極です。
誰もが気軽に音楽を楽しめる、ハッピーな空気にあふれています。
こんなにニューオリンズジャズが日常に浸透してる町は、世界中でも他にないでしょう。


しかし、とにかく寒かった!
なんたって真冬でしたからね。
気温はもちろんマイナスで、常に吹雪いている。
だからなのか、町中に地下道が整備されていて、外に出なくても移動できるようになってるんですよ。
僕は町並みを見たくてがんばって地上を歩きましたが、30分もすると凍えてしまう。
暖を取ろうと店に入っても、あんまり暖かくないんですよね。
みんな店内でもコート着たままだし。
そういえば、パトリックの家も寒かった。
きっと寒さに慣れてるんでしょうね。

若いタイラーとリンジーとは気が合い、町を飲み歩きました。
タイラーはもともとロカビリーをやっていたので、そっち方面の友達も多く、面白かったです。日本のラスティックをやってるような若者に近い感じがしました。
ふたりとも視野が広く、音楽にも人間にもオープンで、ニューオリンズ・ジャズへの情熱にあふれている。
とても刺激になりました。
一緒に録音をしよう、という予定もあったのが、スタジオの段取りがつかず実現しなかったのが残念です。


トロントに住みたいと思うくらい、町のニューオリンズ・ジャズ・シーンは最高です。
この音楽の素晴らしさを、あらためて思い知った旅でした。



カナダのテレビ曲が制作したHappy PalsのドキュメンタリーがYoutubeにアップされています。

番組の中で、メンバー全員が口をそろえて言うのが、若い頃にHappy Palsのライブ、あるいは50〜60年代以前のニューオリンズ・ジャズの録音を聞いて衝撃を受けて人生が変わった、ということです。
中でも31:10からのパトリックのシーンは感動的です。
友達が「(トランペットプレイヤーなら)キッド・トーマスを聴かなきゃダメだ」って言うから、レコードを手に入れて聴いてみたんだ。でも、ピンと来ないどころか、なんて変なプレイだ、って思ったね。そう、とにかく変だったんだよ。これを好きなヤツもいるんだろうけど、俺には受け入れられなかった。
で、それから何年かしてニューオリンズに行ったんだ。プリザベーション・ホールの床に座ったら、目の前にキッド・トーマスがいた。 〜 彼が "Moonlight Bay" を吹きはじめた瞬間、人生が変わったんだ。 〜 何をやりたいのか解った。俺はこの音楽を演奏するんだ、って。
 続く32:04からの "Moonlight Bay" の演奏が素晴らしい!そこだけでも見てみてください!

これってたとえば、ジャニスを聞いて歌を、ジミヘンを聞いてギターをはじめた、というようなことですよ。
ニューオリンズ・ジャズには、それだけの魅力があります。
だからこそ、音楽に詳しくなくても、ただ楽しくて、毎週みんな集まってくるんですよね。
素晴らしいドキュメンタリーなので、英語が少しでもできてニューオリンズ・ジャズに興味があるなら、ぜひオススメします。



2017年7月14日金曜日

ボブ・ホスキンスに会いたくて『モナリザ』を観る

どんな映画が好きか聞かれると、ミニシアター系、フランス・ヨーロッパ映画、なんて答えます。
好きなジャンルっていうと困る。
ギャングものは好きだけど、もそもそも数も多くないし。
アクションやホラーは見ないかな。
まあ、あまり内容で選ぶことはしません。

それでもひとつだけ、とっても弱いジャンルというかお話があります。
それは、男の哀愁もの。
イメージでいうと、クリント・イーストウッドかなー。
でもちょっと男っぽすぎる。
ショーン・ペンの方がいいな。
あと若い頃のキース・キャラダイン。
不器用で孤独な男の、報われない恋の話なんかが、たまりません。
一歩間違えばストーカー、秘めた純愛なのか妄想なのか、みたいな。

典型的な作品は、パトリス・ルコントの『仕立て屋の恋』。
モテない孤独な中年男がミステリアスな美女に惚れてだまされて、それでも愛だと信じて自分を犠牲にする話。
こうやって要約しちゃうと、すごく安っぽく聞こえちゃうな。
でもとにかくそういうのに弱いんです。
ルコントでは、『タンデム』も男の哀愁がプンプンして、いいですね。
作品としては『タンゴ』がいちばん好きだけど。


そんな男の哀愁映画の中でもお気に入りの一本が、『モナリザ』です。
『クライング・ゲーム』『インタビュー・ウィズ・バンパイヤ』で有名なニール・ジョーダン監督が、ハリウッドに進出する前に撮った佳作。
この頃の作品は、地味でいい。

冴えない中年チンピラの報われない恋の話。
7年のムショ暮らしで時代の流れから取り残され、なんとかボスにあてがわれたのは、高級黒人娼婦シモーヌの運転手。
イヤイヤ送り迎えにするうちに惹かれていくけれど、彼女には過去があり、見てる世界が違っていた。
「出会ったときから、彼女はワナにかかっていた。惚れていた男は気づかなかった。そこにはたしかに愛があった。しかし、彼女が愛していたのは、彼ではなかった。」
そんな話。

とにかく!
主演のボブ・ホスキンスが素晴らしい!
ハゲ頭にチビでずんぐりとした体型が、もう哀愁を誘います。
単細胞キャラ。
よく言えばピュア、悪く言えばバカ。
こんなに純粋で不器用な姿を見せられたら、涙せずにはいられない。
画面の外に去って行くシモーヌを見つめるときの、視線。
嫌っていた相手にしだいに惹かれていく心理を、余計な説明なしに、表情や仕草だけで見せてくれる。
過剰な部分の一切ない、名演。
彼を見るだけでも、この映画は価値がある。
好きな演技ベスト3に入ります。
ちなみにあとの2つは、『蜘蛛女のキス』のウイリアム・ハートと、『レイジング・ブル』のデ・ニーロです。
  
でもまたね、他の役者もみんないいんですよ。
ミステリアスな娼婦役のキャシー・タイソンがハマってる。
この作品でデビューしてかなり話題をさらったそうですが、その後はテレビでの活躍が多く、観る機会がなく残念です。
そして、ボブ・ホスキンスの子分というか親友役の、ロビー・コルトレーン。
イギリス労働者階級の素朴さ。
ふたりの関係が、これまた素敵です。
落ちぶれた兄貴分を、あたたかく受け入れる。
彼がボブ・ホスキンスに言う「あんたは俺のヒーローだったのに」っていうセリフに、グッときます。

そして、組織のボスを演じるマイケル・ケインが相変わらずいい仕事をしている。
そもそも僕は、マイケル・ケインのファンだからこの映画を観たんですよね。
今でこそ演技派としてメジャー映画にも出てるけど、僕が『ハンナとその姉妹』で彼を知った20年くらい前は、日本ではまだ知名度が低く、見れる作品があまりなかった。
『殺しのドレス』『デス・トラップ』『アルフィー』『ペテン師とサギ師』くらいでしょうか。
この映画でも、出番は少ないけど、さすがの演技です。

悲劇的なクライマックスのあと、終わり方があっさりしているのも、いい。
それが、エンドロールに流れるナット・キング・コールの「モナリザ」を引き立てます。
"モナリザよ、その微笑みは誘惑なのか、それともたくさんの夢に破れ傷ついた心を隠してるのか。"
という歌詞が、映画をしめくくる。
歌から作られた映画なんじゃないか、ってくらいに合ってる。
もう、どこかでこの曲を耳にするたびに、ボブ・ホスキンスの姿を思い出してせつなくなります。


人物を見せる映画が好きなんです。
凝ったストーリーなんて、一度見ればそれでおしまい。
でも、人間はそうじゃない。
何回でも、その人に会いたい、っていう気持ちにさせてくれるんです。
これからも、ボブ・ホスキンスに会いたくなって、この映画を見ることでしょう。

ちなみにこの映画、元ビートルズのジョージ・ハリソン主催の「ハンドメイド・フィルム」製作です。
それもなんとなく嬉しいです。

2017年7月11日火曜日

音色を磨く

音色って不思議なものです。
譜面にも書きつけられないし、どうすればその音色になるのか、分からない。
たしかに、楽器やパーツの選択でも音色は変わります。
録音した音を機械にかけて、倍音やら色々な音成分を数値化することも、可能なのかもしれない。
それでも、こうすればこの音色が出る、っていう風にマニュアル化することは、できない。
だって、同じ楽器でも演奏者によって音色が違うんだから。
ピアノが、いい例です。
演奏者の体型や骨格も、きっと影響しているんですよ。
微妙な指の動きや、もしかしたら肌の具合や血液の濃度さえ関係しているかもしれない。
そのくらい、ミステリアスなものです。

あなたの声が好き、って、言う。
低い声が好き、高い声が好き、とかはあっても、その中でどうして「あなた」の声だけが特別なのか。
きっとそれは、声質だけではなくって、話すうちの表情や仕草やいろいろが一緒くたになって、その人の中身が透けて感じられるようなことだと、思います。
たとえ全くおんなじ声の人がいても、その全員が「あなた」になれるわけじゃない。

楽器の音色も、そういうものです。
実は、音だけで形作られるものではない。
無意識のうちの強弱や間の取り方や、いろんな要素が一緒くたになって出来ている。
それは身体と直結した、たぶんクセや性格のようなものまで関係した、とってもパーソナルなもの。
演奏には人柄が出る、って言うけれど、それがいちばん顕著なのが音色であって、演奏者自身のいろんなことが詰まっているんだと思うんです。

だから、音色がいいねって言われるのは、あなたのことが好きっていう、おおげさにいえば自分が全肯定されるようなこと。
上手いねとかフレーズがいいねとか、具体的なことをほめられるのとは、違う。
いや、好かれなくてもいいんですよ。
「あなたの音色」と認識してもらえたら、それだけで嬉しい。
少なくとも、自分の中のいろんなものが、ちゃんと音色に出てるということだから。
ただの音符の組み合わせとは違う。
演奏することで、自分自身を表現することができている。

そんな風に考えて、音色を磨いています。

2017年7月8日土曜日

『ザ・レジデンツ・ムービー / Theory of Obscurity』


レジデンツのドキュメンタリー映画を見てきました。

1970年代から活動する、アメリカの前衛ポップバンド。
目玉とシルクハットのかぶりもので顔を隠し、匿名のままで40年以上も活動している。
ポップさと実験性と批評精神が絶妙のバランスで同居する、偉大な4人組です。
でも、意外に日本では知られていない。
まわりのミュージシャンに話してみても、ほとんど誰も知らない。
まあバンドではあるけれども、アートやサブカルチャー界隈での方が有名なんでしょう。
実際、映画を見て知ったんだけど、全作品がニューヨーク近代美術館に収蔵されているそうです。
しかもこんな感じで、冷蔵庫の中に。


僕も正直、ものすごい大ファンというわけではありません。
初期〜中期の作品は聞いてるけど、ぜんぶ好きなわけじゃないし、そもそも日常的に聞くような内容でもないし、あんまり聞きこんでるとはいえない。
よく聞いていたのは、20代の頃です。
国内盤のアルバム解説を読みながら、音楽だけじゃなくて、そのセンスというか活動全般を、かっこいいなと思っていました。
でも、あんまり資料がなかったんですよ。
当時はまだネットも普及してなくて、レジデンツを知ってる友達もあまりいなかった。
少なくとも、音楽友達にはいなくて、僕はひとりでオタク的に買い集めて追求するタイプじゃないので、なんとなく宙ぶらりのまま、気になるバンドのひとつとしてずっとありました。


映画は、レジデンツの歴史をまとめた、わかりやすい内容でした。
やはり、音楽よりも、アートとしての側面が強いバンドなんですね。
ライブも、かなり演劇的な要素が強いみたい。
世界中に熱狂的ファンがいるけれども、それでも経済的に難しかった時期もあるようです。
本人たちは作ることしか興味がなく「売る」考えがなかった、とか、どこまで本当なのか。

デビューアルバムに参加した鍵盤奏者が、はじめて一緒に録音したときのこと。
その場で曲を作り、コードをつけようとしたら、普通のコードを弾くと嫌がられ、オリジナルのコードを考えろ、みたいなことを強く言われたそうです。
うーん、考えさせられます。
レジデンツの初期のアルバムは、楽器の選択からして、普通じゃありません。
というか、どうやって作られたのか知らないけれど、そもそも楽器を弾いて曲を演奏する、というやり方では、たぶんない。

映画の中で何人もがレジデンツに影響受けた、と語る中で、楽器が上手くなくても音楽をやっていいんだと教えてくれた、と言います。
たしかにレジデンツの音楽は、バンド・グルーヴといったこととは無縁。
だから、ミュージシャンには受けないんでしょう。
それよりも、子供がものを叩いて喜ぶような自由さ、音楽の根源的な楽しさのようなものを、思い出させてくれる。
初期衝動、とかね。
パンクの元祖、なんて言う人もいる。

僕がレジデンツに惹かれるのも、音楽以外の部分が大きい。
ブレない独自の価値観と活動姿勢。
なんといっても、ビジュアルが素晴らしい。
目玉のかぶりものは、実はビジュアルイメージの必要性から考えられたもので、本人たちは最初は気に入っていなかったそうですが。
音楽だけではなく、いろんな要素を総動員して、レジデンツという世界をトータルで作り上げている。
匿名での活動、ということも含めて、こんな風に続いているバンドは、他にいません。


僕も音楽をやっていて、もちろん楽器を演奏するんだけれど、それだけじゃなくてビジュアルやらステージングやら名前やら世界観やら、いろんなことに興味がある。
演奏のことだけ考えてるのは、好きじゃない。
それはもしかしたら、若い頃にレジデンツに出会って影響を受けた部分もあるのかもしれません。
あとボンゾ・ドッグ・バンドとか。


それにしても、音楽ドキュメンタリーって、どうして作り手のエゴ丸出しの、まったく意味のないダサい演出があるのか。
インタビューの映像にエフェクトかけてみたり、ライブ映像だって、かっこいいアングルで撮ってばっかりで全体が映らないから、どんなステージなのかちっとも分からない。
被写体を掘り下げてどう見せるか、っていう考えが、ないんだろうな。
音楽ドキュメンタリー撮る人で、いい監督って、いないんだろうか。
映画も好きな身としては、いつも不満です。
そして、邦題の『めだまろん』って、どうなんだろう。

とはいえ、レジデンツはとにかく魅力的で、劇中で紹介されるPV的な映像作品もどれも最高なので、楽しめる映画だと思います。
青山のイメージ・フォーラムで上映中です。


映画のHP。
めだまろん/ザ・レジデンツ・ムービー
予告編が見れます。


ダンス天国のカバーぽい曲
(曲は43秒から。後半3分すぎからの映像がかっこいい。)

ジェームズ・ブラウンのカバー
(2:30くらいからメンバーが登場します)



2017年7月3日月曜日

あがた森魚&はちみつぱいを見にいった

あがた森魚&はちみつぱいのライブを見に、芝公園のメルパルクホールへ行きました。
歴史のありそうな、立派な建物です。
クラシックのコンサートホールのようで、1500人くらい入るそうです。
ホールでゆったり座ってライブを見るなんて、久しぶりです。
後方の席でしたが見やすく、日本のロックを作ったといえる総勢10人のミュージシャンたちによる、スペシャルなライブを堪能しました。

熱い演奏でした。
途中、はちみつぱいだけの演奏と、あがた森魚のピアノ弾き語りをはさみ、ダブル・アンコール含め2時間半、ノンストップ。
MCも少なく、ほぼ演奏だけでこの長さ。
新曲も多くて、いわゆるリユニオン・ライブにありがちな懐メロ感やお祭り感はなく、気合を感じるステージでした。

ただ残念なことに、音響が悪かった。
全体的に音がモヤモヤして、演奏のディテールがよくわからない。 
バンドは9人の大所帯です。
曲によって楽器の持ち替えもあり、ギター1~3、ドラム ×2 、ベース、ピアノ、アコーディオン、バイオリン、トランペット、とたくさんの楽器の音が混ざりあって、混沌としていました。
さらに最悪なことに、ボーカルが埋もれてしまっている。
バンドの方が音が大きい場面も多く、全体的に歌詞が聞き取れない。
もったいないなー。

と思いながら聞いていて半分くらい経ったところで、はちみつぱいが長尺プログレ演奏をしてステージを去り、あがたさんが一人でピアノの前に出てきて、マイクをにぎりました。
それまでは、ほぼ曲のタイトル紹介だけだったのが、ここで、客席に向かって語りかける。
なんて真剣なんだろう。
ここまでの熱量を持ってステージから話す人を、他に知りません。
その真摯さに、感動します。

そこからの演奏も、素晴らしかった。
コードをポロンポロンと鳴らして語りはじめ、「冬のサナトリウム」、断片的なフレーズのリフレイン。
途中で何度も、むせび泣くような、リミッターが外れてどこまでも駆け上るような瞬間がやってきます。
ああ素晴らしい。
やはり音環境は悪くて、弾き語りなのに歌詞がよく聞き取れない。
それでも、あがたさんが歌にこめる感情は、しっかりと届いてくる。
ここまでむき出しで歌う人は、そうはいない。
あの魔法のような声に、ありったけの気もちをこめて。

またはちみつぱいが加わり、ラストまで。
音は混沌としたまま、歌詞や曲全体は不明瞭でも、ときたまその中から、あがたさんの感情が立ちのぼってくる。
「星のふる郷」「骨」「赤色エレジー」。
ダブル・アンコールの後、10人のミュージシャンがステージに横一列で並びます。
あがた森魚とはちみつぱいが『乙女の儚夢』をレコーディングしてデビューしたのが45年前。
僕の人生より長いあいだ、この人たちは音楽をやってきたのか。
すごいな。


音がよくなかった、ってさんざん書いたけれど、いいライブに間違いありませんでした。
あがたさんは、いつも本気です。
嘘がない。
たとえギターの演奏が怪しい瞬間があっても、つくろわない。
どうやって全部を出し切れるか。
どこまで登りつめられるか。
きっと、そんなことを考えてやっている。
音を外すことすら恐れずに、上手く演奏しようなんて、思ってもいないんじゃないか。

まっすぐな表現は、伝わるものです。
それを、あがたさんはいつも教えてくれる。
自分もこれからもずっと、そんな風にやりたい。
あらためて、そう思わせてくれたライブでした。
行って良かった。

2017年6月26日月曜日

テレビなんて見てたらおしまいだ

昨日のライブで、怪我をしました。
ある曲で、スプーンを叩いたんですよ。
二本のスプーンを片手に持って、足や手に打ちつけてカチカチ音を出します。
横で大石みつのんさんが弾き語りでワーっと盛り上げるのに刺激されて、滅茶苦茶に叩きまくりました。
普通の叩き方じゃなくて、立ち上がってもう滅茶苦茶に。
おかげで盛り上がったけど、興奮して身体も叩いてしまったようで、演奏が終わったら手やら色んなところが痛い。
しばらくしてトイレで鏡を見ると、唇の端が赤黒く腫れている。
どうやら勢いで口を叩いてしまい、血豆になっています。

痛くはないんだけど、かなり目立ちます。
あさって写真撮影があるので、これはマズイ、と思って、朝イチで病院にいきました。
そして、薬が処方されるのを待つあいだ、テレビを眺めていたんです。


小林麻央という人が死んだそうです。
僕は普段テレビを見ないので、この人のことを全く知りませんでした。
名前は聞いたことある気がするし、どこかでテレビに映ってるのやら写真やらネットやらで目にしたことはあるかもしれないけれど、それを小林麻央、と認識したことはないので、知らない人と言っていいでしょう。
いろんな人のお悔やみのコメントが、映しだされます。
スタジオで、芸能人が集まって、コメントを言い合います。
夫の市川海老蔵の泣き顔が映ります。
たぶん5分くらい、それらを見ていて、ああテレビってなんて醜悪なんだろう、と怒りに似た感情がわいてきました。
ほぼすべてのコメントが、どこかで聞いたお決まりのフレーズです。
例えば、お悔やみ申し上げます、ってさ、いわゆる「公式コメント」みたいな、いちばん当たり障りのない言葉であって、好きな人の悲しみに本気で共感するときには、絶対に使わない。
まあね、芸能人なら、「公式コメント」を出さなくてはいけないんでしょう。
そして、コメントが紹介されてるのは故人に近い人たちだから、みんな悲しいんでしょう。
でもそれらがズラーっと次々に画面で紹介されると、その言葉にこめられていた悲しみが薄まってしまう。

あの、テロップ!
なんで、発言をぜんぶ文字で表示してしまうのか。
声や表情の中のたくさんの複雑なニュアンスが、あの無味乾燥な文字列のせいで漂白されて、誰の心もザワつかせることのない、人畜無害なただの「情報」に変えられてしまう。
さらに、大げさに神妙なナレーションが、みなさん神妙にしなくてはいけません、と圧力をかけてくる。
人が死んだら、それが誰であっても、一律に定められた「神妙」なリアクションを取らなくてはいけない。
普通に話したり笑ったり怒ったり、「神妙」から外れることは悪だ。
機械のように、一律同じ反応をしなくてはいけない。

そして、故人は清く美しい人で正しく努力して生きた最高に素晴らしい尊敬すべき人物だった、という、チープな物語が捏造される。
それを見た視聴者は、あんないい人が34才の若さで幼い子供を残して死んでしまってかわいそう、と言う。
キャッチーなエピソードだけあつめて作られた、「いいひと」。
それはもう「小林麻央」じゃない。
ステレオタイプの「いいひと」の定型キャラクターにすぎない。
小林麻央さんを人間扱いしていない。


だれか女性芸能人が、「天使みたいな人だった」とコメントしてました。
それが正直な声であるなら、「天使」っていう言葉は、故人を愛していた、っていう意味で使ってるはず。
それがテロップになって機械的に紹介されることで、「小林麻央=天使」という、ただのくだらない情報になってしまう。
その人は、そんなことを言いたかったはずじゃないのに。

そもそも、誰もに愛される、欠点のない、天使のような人間なんて、いるわけない。
どんな人にだって、良いところも悪いところもある。
その、いわば欠点も含めて受け入れるのが、愛するということです。
「いいひと」だから好き、っていうなら、「いいひと」にふさわしくない行動をしたら、もう好きじゃなくなるの?
彼女は永遠に「いいひと」でいなくてはならないの?

テレビ慣れしてない僕としては、そんなやり方が、すごく暴力的に思えてしまいます。
人間に対する冒涜です。
視聴率のための、いわば金儲けのための茶番に、おそらく素敵な人物だったであろう女性の死を、利用するなんて、まともな人間の所業ではない。
この番組作ってる人たちって、人を愛したことないんだろうな。
と、しか思えない。


テレビを見るとバカになる、なんて言うけれど、それどころじゃない。
あんなの見てたら人間終わると思います。
僕はテレビは見ません。
人間として誇りを持って生きたいから。

2017年6月25日日曜日

ミュージシャンになりたいと思ったことはない

昨日は下北沢ラカーニャでペーソスのライブ。
いいステージでした。
バンドに参加してから、半年以上経ちました。
そういえば、初参加の会場もラカーニャでした。

とっても変わったバンドなので、最初はどうすればいいか悩みました。
メンバー、そしてファンの人たちからもあたたかく見守ってもらいながら、試行錯誤し、サックス末井さんとのバランスも、だんだん落ち着いてきた実感があります。
昨日は、いろんな人に好評で、ようやくペーソスの中での立ち位置に確信が持てるような気がしています。


ペーソスの何が変わってるかって、いわゆる「いい演奏」が必ずしもバンド全体として効果的とは限らないことです。
曲によっては、パーカッション、というより音の出る小物、という感覚で、いろんな楽器を導入してきました。
たまには、踊りました。
そうして気がつくと、クラリネット以外の比重が増え、昨日のライブでは半分くらいの曲ではクラ吹いてませんでした。
※座ってスプーンを叩いています

あらためて、自分はミュージシャン志向じゃないんだな、と思います。
アレンジャー、って言うと音楽的すぎるから、効果音担当、雰囲気・仕上げ・スパイス担当、って感じかな。
大げさなポーズをつけておもちゃのマラカスを振ったり、空き瓶を叩いたり、鳥の声の出る笛を鳴らしたり。
ある曲では、歌の合間にでっかいベルを2〜3回鳴らすだけで、あとは神妙な顔で仁王立ちしてました。

自分の演奏なんてどうでもいい。
末井さんが隣でけっして音楽的ではない感動的なソロを吹いているのに、他に何も付け足す音なんてない。
そんなことしたら、せっかくの「場」がくずれてしまう。
その「場」がよければ、クラリネットを吹く必要はないんです。
まあ、もともと、アート系パフォーマンス系バンド(?)、Bonzo Dog Doo Dah Bandが好きで音楽活動を始めてますからね、演奏願望がうすいんですよ。
いい音楽、いや、いいステージをつくりたいだけで、「ミュージシャン」になりたい欲望なんて、持ったことすらありません。


もちろん、音楽的に演奏することも大好きですよ。
でもそれ以外の感覚を持っていることが、ペーソスでは役に立っています。
こんな変なバンドに入ってこんな風に自由にやれる俺すごいな、と思います。
とても、楽しいです。


なんて書きながら、今日はめずらしくセッション・ライブに参加します。
昨日のステージが嘘のような、音楽的な演奏になるでしょう。
いいライブになるといいな。

※昨晩の小物たち