2017年6月19日月曜日

Instagramを始めてみた

インスタグラムをはじめました。
きっかけや理由はありません。
そういえばやってなかったなーと思って、ある日ふと、アプリをiPhoneにダウンロードしました。
最初の写真をアップしたのは、その数日後。
それから毎日なにかしら写真をアップしています。
って、まだ一週間もたってないけど。

使い方がよくわからない。
どんな写真をアップしたらいいのか。
他の人の投稿をのぞいてみても、いまいちピンとこない。
すでに使ってる人に会うたびに聞いてみるけど、やっぱりわかりません。
わからないけど、まあとりあえずやってみよう、という気持ちで、写真をアップしています。


FacebookやTwitterよりも、これからはInstagramだ、っていう声も聞きます。
たしかに、意外にみんなインスタやってるんですよね。
Facebookはやらずにインスタだけ、っていう人も、いるんでしょうか。
でも少なくとも、まわりではまだFaceeookが主流な気がします。
音楽やってると、人と出会う機会がたくさんあって、そういうとき連絡先を教えあうんじゃなくて、Facebookで繋がることが多い。
あとから連絡しようと思ったときもFacebook上でメッセージが送れるので便利ですしね。

便利だけど、やらない人もいます。
そういう人の言うことは決まっていて、他人が今日なにを食べたかなんて興味ない、とか、「いいね!」の意味がわからない面倒くさい、とか。
けっきょく、他人にどう思われるかを気にしてるんですよね。 
嫌われるのが怖いから、ヘタなことしたくないから、関わらない。
安全地帯から踏み出すことをしない。
そうしていれば、たしかに悪いことも起こらないだろうけど、いいことも起こらなくて、閉塞していくだろうに。

僕はそういう考え方が嫌で、とりあえずなんでもやってみよう、と心がけています。
が、それにしてはInstagramにはなかなか手が伸びかなった。
「写真」ていうことに、なんとなく食指が動かなくて。
昔から、写真て撮らないし見ないんです。
もしかすると、少し前にアーヴィング・ペンと出会って写真の良さを知ったことが、どこかで後押しになったのかもしれない。


インスタに写真をアップして、それがどういう風にいいのか悪いのか、まだ全然わからない。
写真って、何をどう撮るかに、どうしても自分のセンスが現れます。
それが知らない人に評価されたりするのかな。
逆に誰かにバカにされることもあるかもしれない。
でも、結果を考えてたら、なんにも始められない。

昔の、たしか辞書のCMで、「じっとしてたって、なにもはじまらないぜ!」って大友康平が言う声を、なぜかときどき思い出します。
別にいいCMでもなんでもなかったはずなのにいまだにセリフを覚えてるのは、10代の僕はその言葉に自分なりの意味づけをしてたんでしょう。
若くて、情熱があったんでしょう。

いまは、どうかな。
とりあえずインスタ続けてみます。

2017年6月15日木曜日

N.O.生活 25 - アルバート式クラリネット奏者 Tom Sancton

たしか大学四年の頃です。
Tom Sanctonが、長いフランス暮らしから戻ってきました。
ニューオリンズ生まれの、アルバート式クラリネット奏者。
若い頃からトラディショナル・ジャズに傾倒した、珍しいタイプのミュージシャンです。
前回も書いたけど、若いミュージシャンはトラディショナルなスタイルには見向きもしないのが普通ですからね。
しかもトムは、伝説的なクラリネット奏者 George Lewisから直接手ほどきを受けているという筋金入りです。

ジョージ・ルイスは、トラディショナル・ジャズの世界で最も影響力のあるミュージシャンです。
分散和音に徹したシンプルでリズミックなフレージングと、歌うように自由な表現は、後のクラリネット奏者の手本となっています。
一緒に演奏したことのあるミュージシャンの誰もが、まるで楽器ではなく声のようだった、と絶賛します。
もちろん、楽器はアルバート式です。

ジョージ・ルイスのフォロワーは世界中にいますが、実際に側について教わったクラリネット奏者は多くありません。
トムはそのことに誇りを持っていて、トラディショナルなスタイルを守った演奏活動を行なってきました。
しかし、ニューオリンズでは、1970年代頃から、古いスタイルのジャズは廃れていき、「食う」ためには、観光客向けのディキシーランド・ジャズを演奏しなくてはならなくなりました。
トムはその流れに背を向け、文章を書く仕事を始めたんです。
そして、フランスに渡りジャーナリストとして活躍しながら、ヨーロッパのトラディショナル・ジャズ・シーンを牽引してきました。


僕はちょうどそのころ、アルバート式クラリネットに持ち替えようか、迷っていました。
日本にいた時は、もともとアルバート式を使ってたんです。
大学に入る際に、「ジャズ」のテクニカルな演奏にはアルバート式では限界があるので、普通のクラリネットに持ち替えました。
それがようやく「ジャズ」の単位を終え、楽器にこだわる理由がなくなったところだったんです。

トムに相談しました。
アルバート式クラリネット奏者としては、世界でもトップのひとりです。
自宅を訪ね、たくさんの楽器を吹かせてもらいました。
メーカーごとの特徴や材質による違いを、実際に吹き比べることができる機会なんて、そうはありません。
中には歴史的な楽器もあって、貴重な経験でした。
僕はフランスのBuffet Crampon 製のアルバート式が好きなのですが、それもトムの家で吹き比べた経験がなければ出会えなかったでしょう。

トムと話して、伝統的なニューオリンズ・ジャズが自分にとってどれだけ大事か気づかされました。
ニューオリンズにいる間、トラディショナルな音楽について話のできるミュージシャンには、ほとんど出会えませんでした。
「ニューオリンズ・ジャズ」として演奏していても、過去の伝統との接点はなく、ただ古い曲をなんとなくスイング調のマナーで演奏するだけ。
伝統に対するリスペクトも、興味もない。
そんな状況からのストレスが、トムと話すことで晴れていきました。
もしかしたら、トムがいなかったら、アルバート式に持ち替えてなかったかもしれません。


トムと、前回書いたマイケル・ホワイト。
この2人との交流が、僕の進路の選択に大きな意味を持ちました。
やりたい音楽しか、やらない。
そのために、ふたりとも音楽以外の職を持っています。
特定の音楽を愛するなら、それと正反対の、相容れない音楽も必ずあるものです。
それをやることは、愛する音楽への、そして先人たちへの裏切りになる。
トムが若い頃を振り返って「バーボンストリート(ニューオリンズの観光街の中心)で毎日くだらないディキシーランド・ジャズを演奏するなんて、絶対に嫌だった。」と、強い口調で言ったことが、忘れられません。

意思を持って真っ直ぐにキャリアを築いてきた2人を、尊敬します。
音楽は、楽しければいい、っていうものではない。
それを、再確認させてくれた。
ふたりの後に続きたい、と強く思いました。
いまでも思っています。

※George Lewis と演奏する若き日のTom Sancton

2017年5月30日火曜日

いま『桐島、部活辞めるってよ』見て興奮している

早書きします。

『桐島、部活辞めるってよ』を見た。
ずっと気になってた映画。
みんないいっていう。

すごく良かった。
びっくりした。
繊細なのに、気取らない、とってもいい映画。
説明的な余計なシーンがぜんぜんないから、1時間半ちょいの長さで十分。
短い映画っていうのは、いい。
終盤のゾンビのシーンで、わけのわからない感動が押し寄せてくるのには、驚いた。
突然ゾンビが襲いかかってくるのを見て、なんで感動するんだろう。
熱量、かな。
自分が高校生の頃って、自分でもよくわからない熱や衝動が、理由もなくわきあがってくることがある。
そういうのに、通じるのかもしれない。
やられた!と思った。
もっとやってくれ!と、興奮で泣きそうに見ていた。
8mmの映像も、効果的にグッとくる。
俳優はみんな若くて、案の定、誰一人として演技はうまくない。
でも、それでもこんなにいい映画になるって、すごいな。
こんな映画、他にないでしょう。
素晴らしい。

もっと早く、見とけばよかった。
これの公開時は、まだ映画をそこまで見てなかったし、邦画なんてよけい興味なかったんだよな。
いまは、映画を見るようになった。
見たい映画がたくさんある。
レンタル屋に行けば、これも気になる、これも見てない、っていうのばっかり。
何せ20年くらい映画をほぼ見てなかったから、むかし見た映画も忘れてて、もう1回見たい、って思う作品も多い。
俳優も監督も、名前を忘れてたりする。

『桐島〜』は、鼓舞してくれる。
その意味で、正しい青春映画です。
見終わって、ああもっと楽器を練習したい!と、思わずにいられない。
そう、楽器を、音楽をやりたい。
でも、映画だって見たい。
気になる新作もあるけど、やっぱり名画も見なくてはならない。
新しい映画もどんどん作られる。
本も読みたい。
全部はできない。

こんなブログなんか書いてる間に、音楽のなにかやればいんだけど、感動してしまった時にはそうもいかない。
だから、この感動をここに残して、今日費やしたものを、明日からの燃料にするわけです。

いい映画はいいね。
どんなときも、裏切らない。
いい音楽も。

2017年5月26日金曜日

小説を読みます

近ごろブログの更新頻度が落ちたのは、小説を読むようになったからなんです。
ずいぶん長いこと小説なんて読んでなかったから、なつかしくて新鮮です。

高校時代までは、小説をよく読んでいました。
進学校だったので、岩波文庫をたくさん読むのが偉い、みたいな価値観があったし。
外国文学が多かった。
ヘルマン・ヘッセと川端康成が好きでした。
ヘッセの遺作の豪華本みたいなのも買ったくらい。
とにかく、過去の名作をたくさん読みました。

それが、音楽が人生の中心になって以来、もう20年も前ですが、本を読むといえば、音楽関係のものばかりになりました。
図書館の「音楽」の棚にある本を片っ端から、知らない音楽家の伝記や、触ったことのない楽器や馴染みのない音楽ジャンルについて書かれた本まで、手当たり次第に借りるようになって、小説を手に取ることはなくなりました。
たまに読むことがあっても、それは音楽絡み。
音楽を扱った小説や、ブラック・ミュージックが好きなので黒人文学はかなり読んだけど、それは純粋に小説を読みたい、という気持ちとは違いました。


ずっと音楽ばっかりだったのが、去年くらいから、また映画を見るようになりました。
そして最近になって、小説をも読みはじめました。
三島由紀夫や太宰治を読み返してみたり、東野圭吾もはじめて読みました。
だんだんなんとなく、現代の小説を読みたくなりました。

現代の小説は、あまり通ってこなかったんです。
家を出たハタチごろ、まだ音楽をやる前の数年間に、少し読んだくらい。
そのころ、山田詠美が好きでした。
そうだ大好きだったな、と思い出して、読み返してみたくなりました。
図書館で、『風味絶佳』を借りました。
実はこの本、アメリカ留学中、夏休みで帰国したときに、買って読んだことがあったんです。
とても感動して、アメリカに戻るときに持って行ったのに、空港かどこかに置き忘れてしまって。

短編集です。
久しぶりに読み返して、あらためて心をうばわれました。
例によって、内容はほとんど覚えていなかったので、はじめて読む感覚で味わいました。
文章が、いい。
情感があります。
ページをめくるのがもったいないほどです。
山田詠美の作品の中でも、そしていままで読んだ本の中でも、ナンバーワンかもしれない。


約20年のブランクのあとで、小説を読む楽しさを、知った気がします。
そうしてみると、読みたい本がたくさんある。
以前はブログを書いてた時間に、小説を読むようになりました。
しばらくは、こんなペースが続くでしょう。
どうかよろしく。

2017年5月21日日曜日

映画って、ストーリーだけじゃないでしょ。

ネットで映画の感想を探すと、たいていストーリーのことしか書いてない。
映画感想ブログなんつって、あらすじばっかりが長々と書いてある。
小学生の読書感想文かって。

ストーリーの良し悪しだけなら、映画じゃなくたっていい。
テレビだって小説だってマンガだっていいじゃん。
それ以外のいろんな要素が絡み合って、映画でしか味わえないものがあって、だから僕は映画が好きなんだけど、どうやら多くの人はストーリーにしか興味がないみたいです。
どうせ話がかみ合うわけないから、誰かに「映画が好き」と言われても、「俺も好き!」なんて返すことはせずに、慎重に距離をはかることにしています。
みんな大好きな”衝撃のラスト!”とか、まったく興味ないしね。


いままでの映画で心に残ってるのは、ストーリーじゃなくて、特定のワン・シーンであることがほとんどです。
セリフがない、たとえば風景が映るだけであっても、特別な情感が残るシーン。
いまパッと思いつくのは『シェルタリング・スカイ』の砂漠で抱き合う二人を空から撮るシーン、『マンハッタン』の夜明けの橋の下、『存在の耐えられない軽さ』の白く消えて行くラスト、『レイジング・ブル』の最後の、画面にすら映っていないシャドー・ボクシング、『バイバイ・モンキー』の冒頭のマストロヤンニの泣き顔のアップ。
どれもセリフのないシーンです。
『バイバイ・モンキー』なんて、ストーリーすら覚えてないもん。

そういえば、顔のアップで思い出すのは『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』の、デ・ニーロの顔を映して終わるラスト。
あの表情は、なんなのか。
説明できないからこそ、頭を超えて感情に刻まれるんですよね。
あと、きのう見た『カフェソサエティ』のラストのジェシ・アイゼンバーグの顔のアップも素晴らしかった。
表情というかもはや目と顔の緊張感だけで、いろんなものが伝わってくるんだもん。
いい役者って、ただセリフを覚えてそれっぽく言うだけじゃなくて、言葉やストーリーで説明できないものを表現することができるんですよね。
たとえば『冷たい熱帯魚』なんて、でんでんと吹越満じゃなかったら、つまんない映画だったと思うし。
ストーリー以外のそういう面白さが分からないと、映画の魅力って半減するんじゃないかな。


映画によっては、ストーリーを追うだけじゃ面白さの分からないものもあります。
たとえば『コットンクラブ』のラスト。
非現実的なシーンだと分からずに、2人で逃げてハッピーエンド、っていう風に解釈しちゃって、安易な終わりかただな、なんて思う羽目になる。
もっと有名な映画だと『インターステラー』もそう。
あのラストも、非現実だと解釈できるようになってる。
しかも、誰かの空想、などときっちり説明できない、あいまいなもの。
その、あいまいなのが、いいんじゃん。

映画じゃなくても、たとえばマンガでも、有名な『あしたのジョー』のラストのコマ。
ジョーが死んだのかどうかなんて考えてもちっとも面白くない。
あの、あいまいな、言い切らない、説明しないのが良いんじゃないですか。
『デビルマン』もそう。
解釈不能なラストが、名作度を高めてる。
ただ、このマンガの場合、作者自身が後に書き足して陳腐な説明を加えて駄作にしちゃったという、おかしなケースですが。
『デビルマン』は、書き足しのない「完全復刻版」を読まないとダメですよ!


言葉で説明できない感動っていう、映画ならではの魅力は、少なくともネット上の「映画ファン」の人たちには、アピールしないみたいです。
もったいないな、と思います。
映画ってもっと、人生を変えるくらいに面白いのに。
僕は『父の祈り』の終盤のダニエル・デイ・ルイスの表情に打たれて、その場で大学辞めて、本当に人生変わりましたからね。
そんな風にして映画に出会えた僕は、ストーリー重視の「映画ファン」よりもずっとラッキーだと、思ってます。

2017年5月19日金曜日

『マーク・リボー&デビッド・イダルゴ』!!

マーク・リボー&デビッド・イダルゴのライブにいってきた。
とてもよかった。
お互い1曲づつ交代で歌うんだけど、曲もその場で決めてるような、ゆるいライブ。
演奏しながら曲を探ってたり、どうやって終わろうか考えながら目を見合わせてる。
主催の麻田さんが開演前の挨拶で、「往年のロックスターが年老いて場末のバーで演奏してるような〜」みたいなことを言ってたけど、まさにそんな感じでした。
もちろん、ほめ言葉です。
あんな風に気負わずに自由にライブやれたらいいなー楽しそうだなー。
そして、こんなラフで生き生きした演奏を楽しめるお客さんが、クアトロ満員になるくらいいるってことは、東京の音楽ファンも捨てたもんじゃないと思いました。


マーク・リボーを知ったのはたぶんトム・ウェイツの『レインドッグ』です。
調子っぱずれのようにも聞こえる、キャプテン・ビーフハートを連想させるような、素晴らしく個性的なギター。
それ以来、好きなギタリストと聞かれるたびに名前をあげていたくらい。
昨日のライブではいろんなスタイルの曲をやったので、ギタリストとしてのすごさがあらためて実感できました。
音楽を、メチャクチャ聞いて研究してる人なんだろうな。
どんな曲調でも、ちゃんとそのジャンルの背景というか伝統というか、ツボを押さえた演奏をする。
けっして奇をてらったことはしないのに、強烈に個性的。
なんなんだろう。
音色なのか、発音なのか、タイミングなのか。
ジャズの語法で乗り切る「上手い」ミュージシャンとは、ぜんぜん違います。

そして、デビッド・イダルゴを見れたことが、単純にうれしかった。
ロス・ロボスは、グレイトフル・デッド、NRBQと並ぶ、大好きなバンドのひとつなんです。
でも、ライブがすごい!って評判はさんざん聞いてたのに、何度か来日してるのに、見に行ったことないんですよ。
今回はバンドじゃないけど、はじめて見た、デビッド・イダルゴ。
ギターのフレーズもいちいちカッコいいし、歌もすごくよかった。
ロス・ロボスって、ボーカルがすごくいいと思ったことは、実はないんです。
それが、実際に見ると違うもんですね。
とってもいいミュージシャンだという、分かりきったことを、生で見て実感しました。

驚いたのは、『ラテン・プレイボーイズ』から2曲も演奏したこと。
あれって、楽曲や演奏だけじゃない、サウンドも含めての作品と思っていたので、まさか弾き語りのライブでやるとは。
大々好きで何度も何度も聴いたアルバムですからね、そりゃ興奮しましたよ。
しかも、ライブの一曲目が "Manifold De Amour" だったんですが、イダルゴが弾くのは、なんとチェロ!
その一曲のためにチェロを用意していて、しかも決してチェロプレイヤーとして達者なわけでもなくて、それがライブのオープニング・ナンバーだなんて。
その気負いのないスタンスが、素敵です。


2人とも、上手く演奏する、とか、ミスをしない、とか、そんなレベルにはもはやいないんですよね。
キャリアのあるミュージシャンだし、もっと「上質」な演奏だって、できたでしょう。
でも、音楽って、そういうことじゃない。
人生を語る、言葉のない会話のようなもの。
それができるミュージシャンて、本当にあこがれます。
演奏のはしばしから二人の体験してきた音楽の歴史が聴こえてきて、さらにそれを共有できるお客さんがいて、とても幸福なライブだったと思います。
本当は、もっとカジュアルなお店で見るのがいいんだろうけど、まあ来日ということでは仕方ないですよね。

素晴らしいライブでした。
二人を呼んでくれたトムズ・キャビン、麻田さん、ありがとうございました!

(写真はTom's Cabinより)

2017年5月9日火曜日

『アーティスト』!!

『アーティスト』を見ました。

素晴らしかった!
内容からして、間違いなく好きだろうと予想はしていたけど、まさかここまで素晴らしいとは。

2012年に米アカデミー作品賞を取った、フランス製作の白黒サイレント映画です。
舞台は、映画がトーキーに移行していく時代のハリウッド。
落ちぶれていくサイレント映画のスターと、トーキーの新進女優のお話。
はっきり言って、ベタなストーリーです。
でも、その王道・定番さが、いい。
ツボを押さえたストーリーの上で、映像で魅せる映画です。

セリフがないことが、効果的です。
例えば、ケガをした主人公のベッド脇から、ヒロインが話しかけるシーン。
おそらく自分の毎日の出来事を、夢中で話して聞かせている。
話の内容がわからないぶん、イキイキと楽しそうな表情に目がいきます。
続いて、聞いている主人公の表情が映されると、とっても優しい顔をしてる。
幸せな気持ちが、伝わってきます。
このシーンにセリフがあったら、会話の内容に意識がいってしまう。
でも、言葉の情報がないおかげで、そこで二人がどんな気持ちでいるか、っていうことだけが、見えてくる。
実際に、好きな人と話すときって、内容は重要でなかったりしますからね。

そんな素敵な場面がたくさんあります。
ふたりが初めて映画で共演する、パーティのシーン。
主人公がダンスのパートナーを変えていって、彼女と踊る番になると、笑ってしまって何度もNGを出してしまう。
どんな会話をしてるのかわからないけど、音楽が流れて二人の姿があるだけで、距離が縮まっていく様子が手に取るように感じられて、涙が出そうになりました。
もしセリフがあったら、ここまで胸に迫ることはなかったと思います。

圧倒されたのは、ラスト近く、銃を持った主人公をヒロインが止めに入るシーン。
それまで流れていた音楽が突然なくなって、無音になり、必死で説得する彼女主人公のやりとりが、ずっと無音の中で映される。
セリフが、そして音がないということが、こんなに胸にせまるなんて。
このシーンの間、僕は息もできないくらいの感動にのまれていました。
ある場面、ある箇所、というのではなくて、シーンの間ずっと心が揺さぶられ続けるなんて、はじめての経験です。
サイレントの力強さに、打ちのめされました。


中盤からは、もうトーキーの時代になっていますが、映画自体はサイレントのまま進んでいきます。
いよいよ音が付くのは、ラストのダンスシーン。
まずはステップの足音が聞こえてきて、ハッとします。
そして、最初に発せられる「声」は、躍動感あふれるダンスの最後、画面に向かってポーズを決めた2人の、なんと、息切れの音!
こういう、言葉では説明できない感動こそが、映画の醍醐味です。
しかも、このシーン自体が、サイレントからミュージカルへと続く古典映画へのリスペクトになっているのだから、打ちのめされます。

このシーンに限らず映画全体に散りばめられた過去の作品へのオマージュについては、賛否あるようですが、僕は好きです。
ただ引用してるのではなく、敬意が感じられて、その愛情が見る側にも伝わるから。

そして、単なるハッピーエンドではない、懐古趣味なんかではない、心に残る終わりかた。
感動に力がぬけて、疲れ果てたような心地よさが襲ってきました。
こんな風にして、疲れるほどに心が動かされる映画は、そうはありません。
他に思いあたるのは、『アンダーグラウンド』『ペーパームーン』『蜘蛛女のキス』くらいかな。

白黒・サイレントの力強さ。
隅々まで情感にあふれた、素晴らしい作品です。
見てよかった。