中村とうよう氏のこと


写真は『矢吹申彦風景図鑑』(1979年、美術出版社)より

中村とうようが死んでもう3年。
そのニュースを知ったのは、美容院で髪を切ってる最中だった。
世間話の中で、突然聞かされた。
どうやら自殺らしい。
その時点で、自宅から飛び降りてから一週間くらい経っていた。
僕はアメリカから帰国したばかりで、まだ日本で色んな情報の入ってくる環境ではなかったので、本当に何も知らなかった。
驚いた。
でも、もうここ数年、次々と好きなミュージシャンも死んでいっていたし、ああ、そうか、くらいに思った。

数日経つうち、実はものすごくショックを受けてる自分に、次第に気づいた。
悲しかった。
どうして涙が出るのか、全然わからなかった。
会ったこともないし、書籍になったものは読んだけど熱心に追っかけていたわけでもない。
本当に、わからなかった。

中村とうようは、ロック、ブルース〜ワールド・ミュージックへと音楽の興味を広げてきた人だ。
僕が楽器を始めた頃には、もっぱらワールド・ミュージックの人になっていたし、対して僕の興味の中心はアメリカ音楽だったので、リアルタイムでの仕事にはあまり触れていない。
そもそも、ミュージックマガジンにしろ、すでに編集長の座は退いていて、唯一の連載「とうようズ・トーク」も、音楽に関係ない内容が多かったので、読み飛ばしたりしていた。

だから中村とうようの影響っていうのはだいぶ間接的なもののはずで、自分が聴いてきたミュージシャン達の死よりも遥かにショックを受けてる理由がわからなくて、「中村とうよう展」にもすごく行きたかったけど行かなかったし、ずっとしこりのように残るこの感覚を少しは整理できるかと思って、きっと今このブログを書いてる。


僕は、ミュージシャンである前に、音楽ファンだ。
かなり幅広い音楽を大量に聴いてきたし、それが僕の演奏を豊かなものにしているのは間違いない。
リスナーとして音楽を聴いてきた経験がなかったら、僕はコード進行に合わせて音を出すだけの、ごくごく普通の管楽器奏者になっていただろう。そもそも楽器を続けていたかもわからない。
そしてその音楽体験を支えて導いてくれたのが、ミュージックマガジンを始めとする、中村とうようの仕事だった。
彼がいなかったら、きっと今の僕はあり得ない。

中村とうようは、遠慮のない物言いで知られていた。
自分がいいと思ったものは誉めるし、ダメだと思うものはダメだと発言する。
その容赦のなさが苦手な人も多かった。
僕の周りにも、自分の出したアルバムが、あるいは好きなアーティストがこき下ろされた、というので、アンチ中村とうようになった人もいた。
そういう人達は言う。作る側の苦労がわからないくせに、とか、精魂込めて作ったものに対してマイナスなこと言う必要ないだろう、とか、新人は温かい目で育てなきゃいけない、とか。

何言ってんだバーカ。

そんなこと言う奴に、表現活動をする資格はない。本気で音楽に向き合ってるなら、いつ刺されてもいい覚悟でいろよ。
って、思う場面もあったかもしれないけど、成熟した僕は言わなかったよ。

きっと、中村とうようは真摯な人だったんだろう。
ウソはつかない。だから、信用できる。
いやとうようさん、それは違うだろう、と思うことだってあるけど、みんながいいねいいね、と言ってる世界の方がよっぽど不自然だ。

僕自身、かなりズバズバ発言するし、そのことで怒られたりもする。このブログだって、そんな批判的なことわざわざ書かなくてもいいじゃん、って言われたことあるし。
でも、自分の中で一定以上の量の感情が動いたら、外に出すべきだと思ってる。それが喜びでも、怒りでも、どんな感情であっても。

そうやって常に自分の感情に正直にいないと、胸を張って人前に出られないし、ましてや音楽をやるなんて以ての外だと思ってる。
その考えの根底には、音楽に対する愛と尊敬があって、それを僕はきっと中村とうようの書いたものの中にも感じていたんだと、今にして思う。
僕が音楽的に成長する過程で、それこそ理解者のようにして隣で勇気づけてくれてきたのが、中村とうようの存在だったんだ。
音楽に向かう姿勢、もっと言えば生き方、みたいな部分にも影響を受けてきた。そんな人は、ほかにいない。
一度でいいから、会いたかった。僕の演奏を、聴いてもらいたかった。


ミュージックマガジン2011年9月号に掲載された最後の「とうようズ・トーク」は、読者に向けての遺書だった。こう結ばれていた。

読者の皆さん、さようなら。中村とうようというヘンな奴がいたことを、ときどき思い出してください。”

ずっと、忘れません。


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