不幸じゃなくてもブルースは歌える

ゲスの極み乙女の騒動について、こういう意見を読みました。

「ゲス」をいじめないで

社会に適合できない「ゲス」な人間こそが、アートを生み出せる、世界を変えられる、と言う。
(好意的に察するに、この人の一番言いたいのは、現代は「ゲス」を許さないような窮屈な社会になってきている、ということだと思います。でもちょっと文章にまとまりがないせいで「ゲス礼賛」の方が聞こえてきてしまう。)

芸術家とは、イビツな人間、不幸な人間、もっと言えば狂った人間だ、という意見は、昔からよく言われていることだし、分からなくはないです。
が、個人的にはどうしても認めたくない。

別に、狂ってなくても、真っ当に健全に生活できてたって、素晴らしいアートは生み出せる。
不幸じゃないとブルースはやれない?
そんなことない。
と、信じたい。

確かに、素晴らしいミュージシャンや芸術家には、悩みを抱えた人や、心が整っていない人が多いです。
でもそれは、「ゲス」な人間「だから」いい表現ができるのでは決してないと思う。 
「ゲス」であっては、例えば会社勤めをするのは難しいかもしれない。
でも、芸術をやるのに社会性は(極論すれば)必要ないわけです。
なので、社会に弾かれた「ゲス」な人間が多く集っているだけだと思います。
全体に対する割合が高いから、その中で目立つ人の中にも必然的に「ゲス」が多い。
ただの割合の問題です。


芸術は、人を幸せにするものです。
受け手も、そしてもちろん表現する当人も。
僕は音楽をやってます。
音楽をやることで、自分自身も幸せになっていかなければ嘘だと思います。
幸せな方が、他人を見る余裕もあるし、視点も広がるし、そうすればさらに音楽も良くなるはず。
そういう、プラスのループ。

生きていれば、悩みは尽きないし、世界から不幸はなくならない。
自分が幸せな方が、そういう様々な問題に対して想いを巡らせ、共感することができるはず。
別に自分自身が生き辛くて不幸である必要はありません。
生き辛さを抱えた人間でも、表現することを通じて他者と繋がり、お互い幸せになることができる。
芸術とはそういうものだと信じたいです。

なので、この人の考え方は間違ってると思うし、こういう意見のせいで、不幸な人は不幸なままでいることになる。
つまり、君は不幸なままでいいんだよ、と言うことは、その人の内面に踏み込まずに距離を置くこと。
高見の見物のようなことです。


「ゲス」な芸術家として、「太宰治にゴッホにヘンリー・ミラーにジョン・レノンにジム・モリソンにジャニス・ジョップリンにイアン・カーティス」の名前が列挙されています。
でも、彼らが社会から逸脱していたことと、残した表現が素晴らしいことは、関係ない。
それこそ都合のいい美化に過ぎません。
彼らは、仮に社会に適合できたとしても、素晴らしい表現をしていたはずだと、僕は思います。
「ゲスだから」という条件がなくても、彼ら自身が無条件に素晴らしかったんです。
幸福でも不幸でも素晴らしかったはずです。

確かに、外れた者を排除する傾向が、日本には強い。
それは良くないことだと思います。
が、この書き手のような「ゲス」を美化する価値観も、色んなことを歪めている一因だと思うんです。



ちなみに、僕も数日前に「ゲス極」をYoutubeで初めて聞きました。
素晴らしいバンドだと思います。
手元で聞いたので、歌詞は聞き取れなかったし、好みではないからまた聞くこともないけど、ここ何年もで耳にしたJpopの中では圧倒的に良かった。

売れたら、人も関わるしお金も動くし、責任が発生してきます。
好きなことをやるだけでは済まされない。
そういう、覚悟と意思、そして心の強さを持った人が、第一線で続けられるんだと思います。 
どうやら、割と短期間でブレイクしたバンドみたいだし、まだ腹が決まってなかった、要は売れる準備ができてなかったんでしょう。
とりまく環境の変化が、ものすごいはずですから。
売れたことでダメになってしまうケースもありますしね。

この人、才能はあるから、音楽は続けられると思います。
でも、才能のある人って、実はいっぱいいます。
本当に、そこら辺にゴロゴロいる。
才能だけでは、第一線に立つことはできない。
売れたいのか売れなくてもいいのか。
本人が決断し納得することが重要だと思います。
意思が曖昧だと、自分も楽しくないし、周りも迷惑しますからね。

これは、音楽に限った話ではありません。
自分が何をやりたいのか。
それが分かっているかどうかで、色んな状況が違ってくるんじゃないかな。

と、まとまらないけど、こんなとこで。


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