2016年1月31日日曜日

会えて嬉しい

金・土と、コロリダスで大阪に行ってきました。
とはいえ、演奏と移動のみで、町を楽しむ時間はありませんでしたが。

まあ、東京の外に演奏に行く時はいつもそうです。
せいぜい地元の美味しいお店に連れて行ってもらうくらいで、町を歩く余裕はないことが多いです。


でも!
今回は、別の楽しみがありました。
会いたい人がいたんです。

永吉克之。
以前僕のブログでも紹介した(ブログ『無名藝人』&小説非小説『徒労捜査官』、大阪在住アーチスト。
数年来のファンなんです。
氏のブログを、どうして辿り着いたか覚えてませんがたまたま見つけて、そのセンスの虜になってしまいました。

SNS上ではやり取りしていましたが、会ったことはありません。
それが、なんとライブを見に来てくれたんです!
まさか会える日が来るとは! 

気さくで話しやすい方でした。
いやー嬉しかった!
本当は朝まで飲みたいくらいでしたが、もちろんそうもいかず。
またゆっくり話したいなー。
とりあえず、会えたことが嬉しい。


そして、なんともう一人。
東淀川区にある素敵なカフェ「ギャラリー耕」の靖江さん。
数年前にお店で演奏させてもらったんですよ。
すごく良くしてもらって。
オープンでとても魅力的な人なんです。

今回は急なお知らせだったのに、しかも他の予定があって途中からしか間に合わないっていうのに、わざわざ駆けつけてくれて。
いやー嬉しかった!
靖江さんも帰りの電車があるしゆっくり話せなかったけど、でも会えたことが嬉しいです。


やっぱり、会えると嬉しい。
ゆっくり話せなくても、顔が見れるだけで嬉しいもんです。
なんか嬉しい嬉しいばっかり言ってるけど、嬉しかったんだから仕方ない。


東京にいても、面倒で外に出ないでいることがあります。
やっぱそれは良くない。
そこに行くことが大事。
もし、何もせず何も話さなかったとしても、その場に居るだけで意味があるんだと思います。


大阪に行けてよかった!

2016年1月29日金曜日

人のことは分からない。真実の愛なんて存在しない。

ゲスの極み・ベッキーの一件についての、デヴィ夫人のブログ。
ちょっと前のものですが、今日読みました。
『A子さん、一刻も早い離婚を!!』
川谷・ベッキーは真実の愛なんだから、奥さんは離婚して去るべき、と言います。

酷すぎて、最後までとても読めませんでした。
なので、もしかして最後の最後に違う内容も書いてあるかもしれないので、その場合は許してください。

3人の関係を決めつけてるのが非道すぎて、それが引っかかってしまって、こうしてブログ書いてます。
当事者じゃないのに、なんでそんなこと分かるの?
2人がどういう関係でお互い何を思ってて実際に何が起こったのかは、分からない。
仮に知り合いで当人たちと話したとしても、分からない。
人のことなんて、絶対に分かるわけない。

円満そうな家庭だって、家では子供を虐待していたりDVがあったり不倫してたり、そんなの、よくあることじゃん。
なんか事件があったとき、知人はみんな「あんなにいい人が信じられない」とか言うじゃないですか。

人のことは分からない。
分からないから、分かろうとしてコミュニケーションを取るんじゃないですか。
そんな簡単に分かった気になるなんて、傲慢すぎる。


もう一点。
「真実の愛」なんて、存在するわけないじゃん!
そんな免罪符みたいな天国みたいなものは存在しない。
だからこそ、愛を「保つ」努力をするんじゃないですか。
お互いに相手のことを常に見て、よく見て気持ちを考えて、自分を変えていく。
本当に相手のことが好きで関係を続かせたいなら、不断の努力が必要なんですよ。

だって、人は変わります。
考えも変わるし、実際の生活の状況も変わるし、毎日いろんな出来事にも出会う。
変わらない人はいません。
2人いたら、それぞれが常に変わっていくわけです。
そうすれば、関係性も変わる。
変わる中で、相手の変化、状況の変化、そして自分の変化に向き合って、細部を調整していかなきゃいけない。
「真実の愛」とか「ゴール」とか「運命」とか、キレイだけど、キレイなだけに、疑わしい言葉だとも思います。


何か事件や騒動があると、それに対して自分の心の奥底の思いを投影してしまうんでしょう。
今回の件の場合、不倫によって不快な経験をしたことのある人なら「不倫許せない!」と思うかもだし、大っぴらにできない恋愛経験のある人は、「真実の愛を貫いて!」となって、声を荒げてしまう。
その感情は、本当は自分の場合にしか当てはまらないはずなのに。


個人的には、これは「真実の愛」にはほど遠いと思います。
なぜなら、川谷絵音はどっちのことも本当に好きなんじゃないと思うから。
だって、結婚したり不倫したりしたわけで、その両人に対して、少なくとも一時は好意があったはず。
好意を抱き関係した女性2人が、苦しんでるわけです。
それなのに、何の行動も起こさない。
好きなら、そんな風に黙って引っ込んではいられないと思うんですよ。
いくら自分も苦しいからって。

僕はマスコミの報道は基本的に疑ってかかるので、出回ってる発言などに関しても、信用していません。
でも、騒がれて以来、彼が表に出てきて発言していないことは、事実です。
ベッキーに関してなんか、億単位でのお金が動いて、多くの人が実際に不利益を被っているわけで。
まあそれは仕事の話だから脇に置くとしてもですよ、逃げてるように見えます。

仮に「真実の愛」だとしたら、何を置いても誰に何を言われても、ベッキーを庇い助ける行動に出るはず。
そんな大きな想いじゃなくても、少しでも好きなら、何かせずにいられないと思うんですよ。

仮に本人が「真実の愛」と本気で思い込んでたとしても、相手の気持ちを想像して思いやることが抜け落ちてたら、それは独りよがりに過ぎない。
例えは良くないけど、ストーカーなんてみんな「真実の愛」と思って行動してるんだろうし。  
彼は、妻のこともベッキーもことも、思いやれていない。

たぶん、どちらのことも真剣ではない。
あるいは、これは勘ぐりですが、女性を人間として見れないタイプなのかも。
楽しくやれる可能性が少しでもある限り、女性にいいことを言える人。
そういう人、実際にいますからね。

分かんないですけどね。
誰かを愛する、あるいは愛したことのある人には、僕には見えません。


ああ、今から大阪へ行かなきゃいけない朝に、なんでこんなの書いてるのか。

おしまい。

2016年1月26日火曜日

クラリネットはカールよりブルーナ

今週日曜に、バンジョー坂本誠とDUOでのライブがあります。
ニューオリンズ・クラリネットの理想を追求する場。
坂本さんとじゃないとできない、「味」とか「滋味」とかいう世界です。
できるだけシンプルに。
これが難しい。

理想とするのは、「Rudy Balliu Trio」。
ライブも近いからと聞きなおしてみたんです。
あらためて、驚きました。
なんと、クラリネットのソロ・コーラスがほとんどないんですよ!
数曲を除いて、演奏は3コーラスのみ。
クラリネットがテーマを吹いて、ギターと、時にはベースがソロを取り、3コーラス目でクラリネットが簡単なソロからテーマにつないで終わる、という構成です。
一曲はだいたい2〜3分です。

各ソロも、メロディが基調となっているものが多くて、とてもシンプル。
中には、2コーラス目の後半からクラリネットが戻ってきてそのまま終わる短い曲もあります。
バラードなら分かるけど、ミドルテンポの曲でも、ですよ?

すごい。
僕も、シンプルな演奏を心がけてはいますが、さすがにここまで削ぎ落とすことはなかなか。
どうしても、何かやらなきゃ、という気持ちが湧いてきてしまうんです。
ミドルテンポの曲を2コーラス2分で終わらせるなんて、本当にものすごく難しい。

全く違うイメージを持って演奏しないとダメなんだと思います。
曲を演奏するときに、全体のイメージみたいなものが、あるわけです。
抽象的なことなのですが、こうやってこうやってこうなったら落ち着く、みたいな、流れや構成の感覚。
ストーリーテリングとも言えます。
例えば作家でも、書きなれた長さがあって、特定のページ数/文字数が感覚的に体に染み込んでいる場合があると思うんです。
だから、長編作家がエッセイを書いてみてもイマイチだったり、その逆もあります。

僕の場合は、何だろう。
得意なのは、短編、というより、随筆やエッセイかもしれない。
ルディ・バリウの演奏は例えるなら、絵本かな。
それも、ディック・ブルーナみたいなやつ。

エリック・カールだと、違うんですよ。
色が複雑に美しすぎて見とれてしまうから。
好きですけどね。


うん、こうして2人の絵を並べてみると、我ながらいい例えに思えてきました。
よし!
日曜はディック・ブルーナをイメージして演奏してみよう!
どうなるか。
つかめるといいな。

31日日曜日、西荻窪ミントンハウスで、19:30〜22時まで演奏します。
よろしく!

2016年1月23日土曜日

映画『『ザ・トゥルー・コスト 』を見た。世界は滅びるだろう。

本を読んだ勢いで、見てみようと。
このタイミングじゃないと見ることないだろうから。

予想よりはるかに、考えさせられる映画でした。
「ファストファッション」について考える、というと、「搾取」「悪」というのが一般的なイメージだと思います。
でも、そんなのはもはや動かし難い事実に過ぎなくて、わざわざ声を大にするようなことじゃないんですね。

ファッションは、石油に次いで地球の環境に影響を与えている産業だという事実。
そういう大きな話。
企業は、資本主義は、無限に拡大を続けていくことが基本だが、資源は有限。
利益の追求が自然界の限界点を超えたので、歪みが発生してきている。
アメリカは、教育や交通システムを批判し改正し続けてきたが、経済システムだけは無批判のまま放置されてきた。
野放しなシステムは淀み腐敗する。
経済システム自体を変えなければいけない。
といった内容が語られます。


映像って力があるな、と思いました。
こういうことって全部、誰もがなんとなくぼんやりとは解ってることです。
でも映像からの方がはるかに入ってくる。
ドキュメンタリーとしてもいい作りで、変な演出もなく、過不足ない。
悲しい音楽が流れちゃうシーンもあるけど、大げさにはならない。
1500円払う価値がある映画だと思います。
渋谷アップリンクで、連日11:00からやってます。
もうすぐ終わるぽいです。


しかし、どうすればいんだろう。
やっぱり人類は終わるのか。
環境も経済も、悪い方に向かってる感覚がある。
身の回りでも、ここ10年間くらい、音楽や何か表現活動をしている人と会って、前向きな話はない。
個人的なアップダウンの話はあっても、大きく見たらあらゆる状況は悪化する一方。
今後アップに転じる望みは限りなく薄い。


服について。
何をどこで買えばいいんだろう。
「オーガニック」「エコ」といった言葉すら、キャッチとして使われているケースもある。
「Made in Japan」「Made in USA」はよくて、「Made in China」はダメなのか。
わからない。
シャツ一枚買うのに、その生産方法まで全部リサーチしてたら、一向に何も買えない。
信頼できるブランドを見つけ、定番の服を買い、そのブランドで買い続ける、ということを、アイテムごとにすればいいのかな。
まずワードローブを整理し直してみよう。

映画の最後で、カンボジア(だっけかな?)の工場で働く女性が言ってた。
「血の付いた(or血で汚れた?)服を着てほしくない。」


何にでも対価があるってことが、忘れられがちだと思う。
いい革靴は10万円する。
本革の靴が一万円で買えるなら、生産過程のどこかに何か仕掛けがあるはず。
ケミカル、手抜き、搾取、何かが。
って考える方が自然じゃない?

対価。
音楽にも対価があって当然なのに、日本人はそう思わない。
タダで演奏して当たり前だと思ってる人が多い。
タダの時もあっていいけど、それは例外だと思うべき。
満足したら、いい気分にしてもらったら、感謝してリスペクトして対価を渡すのが、自然に思う。
アメリカのチップ文化の気持ちよさを知った身としては、つくづく思う。

演奏する側もそう。
たまに、ギャラを渡されたのに遠慮する場面に出会う。
プロじゃないから、と言う。
肩書きは関係ないのに。
いい演奏をして、対価を受け取るのは当然のこと。
当然のことを当然に行っていかなければいけない。
その感覚が、回り回って、カンボジアの労働者は当然もらうべき生活費をもらわなくてもいい、という発想につながる。
そもそもプロって何?
そんな会社か、免許制度でもあるの?
演奏への対価なのか、肩書への対価なのか。
縫製も演奏も給仕もなんでも、いいサービスを受けたら対価を返すこと。


あと、こういう環境問題とかって、どうしてもイメージが良くない。
やたらミッション抱いた素敵な優等生の嘘くさい雰囲気が充満している。
問題自体に興味はあっても、そういう雰囲気が好きじゃないから距離を置く、って人、意外といると思うんだけどな。
他のいろんな社会問題もそうだけど、もっと自然に発言、対話ができたらいいのに。
ちなみに、アメリカはそうでしたよ。
前提として、どんな発言もフラットに受け入れる土壌があるので。
日本は、意志を持った人が生きづらい、発言しづらい。
まあそれを言ってどうなるわけでもないけれど。

僕は、世界は滅びると思ってます。
子供もいないし、世界の前に僕も滅びる方が早いから、まあいいかな、と。


と、考えが広がって仕方がないので、思うままに書いてみました。
これで整理とまではいかなくても、少しは頭が落ち着いたかな。
しかし、こんなに刺激される映画を朝に見ると、一日のスケジュールが変わって困る。

『ファストファッション』を読んだ



『ファストファッション』という本を読みました。

バングラデシュの衣料品工場が倒壊し1000人以上が死亡した事件もあったし、ファストファッションの搾取構造について全く知らなかったわけではありません。
でも、その悲惨な労働環境の原因を、我々が安い服を買うからだ、と結びつけるのも短絡的だろう、と思っていました。
最底辺の仕事がたまたまその国では縫製工場だった、というだけで、仮に工場がなければ別の仕事が同じ位置にくるだけじゃないのか、と。
その国の社会構造の問題だと思っていました。

服以外だって、我々の食べ物や家具や、なんでも元を辿っていけば、決して快適ではない労働の場に行き着くことがあるでしょう。
それを気にし出したら、身の回りから大量生産のものを遠ざけなきゃいけない。
けっきょく、少なくとも現代の東京では、見知らぬ誰かの血と汗に依存しないと生活できないわけです。

という考えから、ファストファッションの問題については、特に関心を持ってはいませんでした。
それが、年末にたまたまVICEのドキュメンタリー動画を見たんです。
カンボジアの縫製下請け工場に取材したもので、やはり映像だと訴えてくるものがありますね。
そこから興味が湧いてこの本の存在を知り、図書館で予約し、読みました。


何かを糾弾する本ではありませんでした。
ファストファッション信奉者だった著者が、疑問を持った点を次々と調査し、考えが変化していく過程を綴ったものです。
近年のファッション業界の様子、消費者の変化、ファストファッションの構造などについて、専門的にならずに書かれています。
例えば、
ファストファッションの利益率は、従来の販売方式の約2倍であること。
アメリカではファッションに著作権がないため、模倣を規制するのが難しいこと(フランスでは100年前からファッションに著作権が認められています)。
従来のブランドは、ファストファッションとの差別化で高級化し、1998~2010年の間に、高級婦人服の平均価格は2.5倍に上昇したこと。
などが、さらっと説明されます。

この本を読んで、「搾取に加担するのはやめよう!」とはならないでしょう。
それよりも、ファッションについての価値観を考えさせられる。
流行とは、貧困国から搾取し環境を破壊してまでも、自分にとって意味があるものなのか。
著者自身、流行を追うことから次第に「着る」という行為自体に意味を見出すようになっていきます。
服を着ることは、ただ体を覆うだけではなく、もっと心の中まで暖かくできるものだと、確かに思います。


僕の場合、実はそもそもファストファッションの店で買ったことがありません。
ようやく去年、初めてユニクロでヒートテックを1枚買ってみたきりです。
ステージ用の服を探すときにいくつかの店を回ったことはありますが、けっきょく買わなかったし。

昔からファッションが好きで、グッと来ない服は買いたくないんですよね。
もちろん、グッとくるような美しい服は安くありません。
当然なかなか買えないから、たくさん迷うしリサーチするし、手に入れたら大切にします。
だから、持ってる服はどこで買ったか全部覚えてるし、気に入ってずっと着続けています。

僕が服を長く着られてるのは、音楽の世界に進んだこともあると思います。
周りに服好きの友達がいないので、ファッションの流行に左右されずに済んだんですよね。
若い頃から自分のセンスで、比較的ベーシックなものを買っていたので、ダサくて着れなくなることがない
おかげで、20年前に買った服を今でも好きで着れているんだと思います。

その感覚からすると、ファストファッションの服がすぐダメになるという描写にまず驚きました。
Tシャツ、ジーンズ、下着以外で、着れなくなって処分した服なんて記憶にありませんからね。
そして、シーズン毎に買い換えたり、安いからと気軽に買ってそのまま放置したり、というエピソードも信じられない。
新しい服を買えば、それをどうやって着こなそうか考えるのがいつも楽しみです。
放置するなんて有り得ません。


ファストファッションの服を買わないのは、「値段」から得られる満足度が低いからです。
買ったときは嬉しいかもしれないけど、それはその時だけ。
でも、値段じゃなくて服そのものが気に入ったなら、毎回袖を通す度に笑顔になれます。
自分で価値があると思えるモノに囲まれたら気分がいい。
そして、気分のいい自分自身のことが好きになる。
もちろん、服装を人に褒められたら嬉しいけど、それだけじゃない。
ファッションは、自分を好きになる、自信を持つためのツールなんです。

モノを買うときは、まず価格は見ない。
気に入ったものがあれば、値札を見る。
安かったら買う。
高かったら悩む。
高すぎたら諦める。
というやり方をしています。


以前は、ファストファッションに対して特に否定的ではなかったし、機会があれば買ってもいいなとも思っていました。
しかし、この本を読み終え、様々なイビツな部分を知り、ファストファッションに対しては最早ネガティヴな印象しかありません。
気持ちの悪いストーリーが引っ付いた服を着ていても、ぜんぜん嬉しくない。
すぐダメになるなら、けっきょくコスパも悪いし。
今後、買うことはないでしょう。

服だけじゃなくて。
値札に惑わされず、そのモノ自体をしっかり見て、自分にとって価値があるか考えた方がいい。
それを身の回りのこと全てに徹底できたら、きっと、すごく楽しいだろうと思っています。


最後に、この本について一つだけ。
翻訳調の文章が、読みづらいです。
きっと原語ならスラスラ読めるはずなのに、訳文のせいでぎこちない流れでしか読めない。
原書の意味に忠実とか、原文に沿って、とか色々あるんだろうけど、読みづらいのはダメだと思う。
昔から翻訳本てそういうのが多い。
もっと読み手の感覚を考えてほしい。
翻訳業界って、進歩がなくて残念です。


2016年1月22日金曜日

N.O.生活11 - ハリケーン後の音楽シーン

New Orleans Moonshiners としての活動が始まりました。
まずは、どんな音楽シーンにいたのかを書いておきます。


ハリケーン後、ニューオリンズの音楽シーンは変わりました。
と言っても、僕はハリケーン以前のことについては旅行者としてしか知りません。
それでも、ミュージシャンの種類は明らかに変わっていたし、それは僕がいた4年間に耳にした様々な話からも確かです。

トラディショナル・ジャズのシーンでは、ハリケーンを境に、それまでいたミュージシャンが去り、若いミュージシャンが大量に移り住んできました。
ハリケーンの被害は大きく、町の生活は厳しくなり、ミュージシャンの仕事も減ってしまった。
家を失ったミュージシャンもいて、そこから生活を立て直すのは簡単ではありません。
他の州に避難し、そのまま戻って来ないケースも多かったようです。
しかし、若ければ、なんとかなります。
家族もいないし、数人でルームシェアをすれば生活費も安く済みますからね。

ニューオリンズの、古き良きロマンチックなイメージに惹かれ、ヒッピー感覚でやってきて、路上演奏でなんとかやってる若いミュージシャンが沢山いました。
そして、ミュージシャンだけではなく、ダンサーも移り住んできていました。
スウィング・ダンスと呼ばれる、1920〜30年代に流行ったダンスの愛好者たちで、そこでかかる音楽はもちろん古いジャズです。
彼らは夜な夜なバーに繰り出し、若いミュージシャン達の演奏に合わせて踊ります。
ミュージシャンとダンサーはみんな仲が良く、ひとつのコミュニティが形成されていました。 
このコミュニティは、おそらくハリケーン以前にはなかったものだと思います。

バンドが演奏するのはスウィング・ジャズ。
ディキシー・ランド・ジャズの源流のような音楽で、速いテンポで熱狂的に演奏されるのでホット・ジャズとも呼ばれます。
スウィング・ダンス自体、上級者になるとアクロバティックな動きもあるような激しい面もあり、ステップも速いですからね。
それは、伝統的なニューオリンズ・ジャズとはある意味で対極の音楽です。
実際、昔からいたミュージシャン達との交流はほとんどありません。
外部から移植されたような、独特のコミュニティでした。

僕らのバンド New Orleans Moonshiners は、その新しいコミュニティの中で活動を広げていきました。
各地域のローカル・バーや、スウィング・ダンサーの集まるイベントで、結成当初から週イチは演奏していたと思います。
ダンサーを中心とするそのコミュニティは、ミュージシャンをサポートしようという意識が強く、皆オープンでフレンドリー。
世代も近く話も会うので、居心地は良かったですね。

僕はニューオリンズの音楽が好きで渡米したのですが、思いもよらぬ新しい場所から音楽活動が始まりました。

2016年1月19日火曜日

不幸じゃなくてもブルースは歌える

ゲスの極み乙女の騒動について、こういう意見を読みました。

「ゲス」をいじめないで

社会に適合できない「ゲス」な人間こそが、アートを生み出せる、世界を変えられる、と言う。
(好意的に察するに、この人の一番言いたいのは、現代は「ゲス」を許さないような窮屈な社会になってきている、ということだと思います。でもちょっと文章にまとまりがないせいで「ゲス礼賛」の方が聞こえてきてしまう。)

芸術家とは、イビツな人間、不幸な人間、もっと言えば狂った人間だ、という意見は、昔からよく言われていることだし、分からなくはないです。
が、個人的にはどうしても認めたくない。

別に、狂ってなくても、真っ当に健全に生活できてたって、素晴らしいアートは生み出せる。
不幸じゃないとブルースはやれない?
そんなことない。
と、信じたい。

確かに、素晴らしいミュージシャンや芸術家には、悩みを抱えた人や、心が整っていない人が多いです。
でもそれは、「ゲス」な人間「だから」いい表現ができるのでは決してないと思う。 
「ゲス」であっては、例えば会社勤めをするのは難しいかもしれない。
でも、芸術をやるのに社会性は(極論すれば)必要ないわけです。
なので、社会に弾かれた「ゲス」な人間が多く集っているだけだと思います。
全体に対する割合が高いから、その中で目立つ人の中にも必然的に「ゲス」が多い。
ただの割合の問題です。


芸術は、人を幸せにするものです。
受け手も、そしてもちろん表現する当人も。
僕は音楽をやってます。
音楽をやることで、自分自身も幸せになっていかなければ嘘だと思います。
幸せな方が、他人を見る余裕もあるし、視点も広がるし、そうすればさらに音楽も良くなるはず。
そういう、プラスのループ。

生きていれば、悩みは尽きないし、世界から不幸はなくならない。
自分が幸せな方が、そういう様々な問題に対して想いを巡らせ、共感することができるはず。
別に自分自身が生き辛くて不幸である必要はありません。
生き辛さを抱えた人間でも、表現することを通じて他者と繋がり、お互い幸せになることができる。
芸術とはそういうものだと信じたいです。

なので、この人の考え方は間違ってると思うし、こういう意見のせいで、不幸な人は不幸なままでいることになる。
つまり、君は不幸なままでいいんだよ、と言うことは、その人の内面に踏み込まずに距離を置くこと。
高見の見物のようなことです。


「ゲス」な芸術家として、「太宰治にゴッホにヘンリー・ミラーにジョン・レノンにジム・モリソンにジャニス・ジョップリンにイアン・カーティス」の名前が列挙されています。
でも、彼らが社会から逸脱していたことと、残した表現が素晴らしいことは、関係ない。
それこそ都合のいい美化に過ぎません。
彼らは、仮に社会に適合できたとしても、素晴らしい表現をしていたはずだと、僕は思います。
「ゲスだから」という条件がなくても、彼ら自身が無条件に素晴らしかったんです。
幸福でも不幸でも素晴らしかったはずです。

確かに、外れた者を排除する傾向が、日本には強い。
それは良くないことだと思います。
が、この書き手のような「ゲス」を美化する価値観も、色んなことを歪めている一因だと思うんです。



ちなみに、僕も数日前に「ゲス極」をYoutubeで初めて聞きました。
素晴らしいバンドだと思います。
手元で聞いたので、歌詞は聞き取れなかったし、好みではないからまた聞くこともないけど、ここ何年もで耳にしたJpopの中では圧倒的に良かった。

売れたら、人も関わるしお金も動くし、責任が発生してきます。
好きなことをやるだけでは済まされない。
そういう、覚悟と意思、そして心の強さを持った人が、第一線で続けられるんだと思います。 
どうやら、割と短期間でブレイクしたバンドみたいだし、まだ腹が決まってなかった、要は売れる準備ができてなかったんでしょう。
とりまく環境の変化が、ものすごいはずですから。
売れたことでダメになってしまうケースもありますしね。

この人、才能はあるから、音楽は続けられると思います。
でも、才能のある人って、実はいっぱいいます。
本当に、そこら辺にゴロゴロいる。
才能だけでは、第一線に立つことはできない。
売れたいのか売れなくてもいいのか。
本人が決断し納得することが重要だと思います。
意思が曖昧だと、自分も楽しくないし、周りも迷惑しますからね。

これは、音楽に限った話ではありません。
自分が何をやりたいのか。
それが分かっているかどうかで、色んな状況が違ってくるんじゃないかな。

と、まとまらないけど、こんなとこで。


2016年1月18日月曜日

長靴のススメ

雪ですね。
なんだかんだで、東京でも毎年雪が降ります。

雪の日は、長靴を履きます。
雨なら、大降りでなければ普通の靴の時もありますが、雪の日はさすがに悲惨なことになりますからね。

でも、町に出てみると、男性で長靴を履いてる人はほとんどいません。
なんでだろう?
道はグチャグチャで、ちょっと歩いただけで靴は水浸しになるはず。
実際、みんな靴どころかくるぶしくらいまでビショビショになってる。
グショグショのまま一日を過ごすわけですよね。
よく平気だなー。

サラリーマンの人って、革靴じゃないとダメなんですかね?
濡れたら革にも良くないじゃないですか。
濡れた革靴なんて、見た目もみっともないと思うんですが。

会社では革靴しか許されないとしたら、仕方ない。
でも、スーツではない人も、スニーカーとか、普段と同じ靴の人ばかり。
やっぱり靴はグショグショで、あちこちで水溜りを避けようとして滑ってバランスを崩したりしてる。
長靴にすればいいのに。

確かに、男性用の長靴は種類が少ないし、ちょっとでもデザインのいいものは安くない。
とは言え、みんな1万円するスニーカーとか履いてるじゃないですか。
それくらい出せば、ハンターやエーグルのレインブーツ買えます。
だから、値段じゃないはず。

たぶん、履いてる人が少ないから、という理由だと思うんです。
長靴を履いてると目立ちます。
実際、たまに雨の日に長靴履いてると、けっこう突っ込まれますからね。
みんなと同じがいいという国民性のおかげで、ビショビショの靴のまま一日を不快に過ごさなくてはならない。
なんて無駄だろう。


かく言う僕も、昔は、雨でも雪でもスニーカーで過ごしていました。
でも、いったん長靴の快適さを知ったあとでは、もう戻れません。
濡れないし、滑りづらい。
水溜りも一切気にする必要がありません。
特に今日みたいな雪の日は、濡れて足元から冷える心配がない。
最強です。

僕は、Tretornのレインブーツを履いてます。
スニーカーはたまに日本でも見かけますが、長靴は珍しいかもしれません。
最初はニューオリンズで買いました。
これです。



かなり気に入っていたのですが、最初の一足を履きつぶした後、日本で探してもなかなか見つかりませんでした。
輸入元に問い合わせ、取り扱いのある釣具店にわざわざ送ってもらってようやく買ったのがコレ。

デザインは前の方が好きなんですが、こっちの方が履きやすい。
クッションもしっかりしていて、疲れません。
たいへん優秀です。

これから履いてみたいのは、やはりビーン・ブーツ
ビーン・ブーツ 8"
アウトドア・テイストが強くて昔は惹かれなかったんですが、今なら履いてみてもいいな。
他にも、セレクト・ショップなどでたまにインポートのえらいカッコいい長靴を見かけることもあります。
そういうのは2万円とかすることが多いですが。


とにかくですね、長靴、いいですよ!
履く人が増えれば、商品も増えるはず。
みんなで履きましょう!



2016年1月15日金曜日

飲んでばかり

毎日飲んでます。
たまたま予定が重なっただけなんだけど、なんだか新年だなーという気になりますね。
実際、新年会をやってると思われるサラリーマンの人達もけっこう見かけるし。

人と飲むのはいいもんです。
でも実は僕自身は、酒を飲んでも変わりません。
眠くなったりフラついたり気持ち悪くなったりと、体には出るんですが、頭はずっとハッキリしたままなんです。
陽気になったり楽しくなったり、ということがない。
コーヒー飲んでる時と、話す中身は変わりません。
なので、酒を飲むのは雰囲気の要素が大きいです。
「飲む」という場で話すのが、楽しい。

そもそも、ストレス発散みたいなことは必要ないタイプなので、騒ぐことには興味がないんです。
少人数で飲むのが好きです。
大人数でいても、みんなでバカ話してるのにはあまり参加しません。
隣の人とちゃんと話したい方なんです。

ここ数日は、いろんな人といろんな話ができて楽しかったな。


さて、飲んだし、いい加減にペースを戻さないと。
自分のことができてないと、飲んでもお互い楽しくない。
いつでも人と楽しく飲めるように、毎日やります!



2016年1月13日水曜日

ベレー帽考

ベレー帽ってあるじゃないですか。
その頭の上の真ん中に、ちょこんと紐みたいな突起がついてるじゃないですか。
あれ、何なんですかね?
由来や用途があるんですかね?
あの部分だけわざわざ後から付けるわけですよね?
そこまでして必要なんですかね?

去年の夏頃から、コロリダスのライブで帽子を被るようになりました。
ステージ写真を見直して、その方が全体の中でバランスいいな、と思って。
でも、ハットは気が進まない。
ラテン系のバンドって、やたらハット率高いので、なんか違うのにしたかったんです。
でお店を回って探して、こういう帽子に落ち着きました。


これはたぶんベレー帽と言うんでしょうかね。
でも、自分としてはベレー帽のイメージじゃないんですよ。
ベレー帽を頭に斜に乗せてるのではなくて、シルエット的にはレゲエ系の人が被るユルいニット帽みたいな、でかくて垂れてる感じ。

こういう帽子、意外に少ないんです。
ユルいニット帽は、とにかくPeaceなテイストのものばかりで、腰が引けてしまう。
あっち系のセンスは僕は苦手なので、やはりベレー帽の方向で探した方がいい。
しかし、ない。
大きいベレー帽はあっても、例の突起がついてる。
突起がなければいいのに!

あれは、何なんだろうか?
と思って検索してみたら、元々は製造過程でできるものだったらしいです。
もちろん、機械生産の現代においては、後から付けるんですが。
そして、手の汚れやすい画家が、帽子を汚さずに脱げるため、という説もありました。
確かにベレー帽といえば、パイプと共に古き良き油彩画家の必須アイテムとしての地位を確立していますし、そのイメージの中のベレー帽には、もれなく突起がついている。
あの突起こそが、伝統的ベレー帽の象徴なのかもしれない。

でも、ここ数年というもの、若者向けのオシャレ帽子店も増えています。
CA4LAをはじめとするそれらのショップで買い物する若者が、昔の画家のイメージに憧れてるとは思えない。
彼らは、あの突起についてどう思ってるんだろう?
画家への憧れなんて関係なく、何も考えずに文化服装学院にパーっと入った若者の皆さん、どうなのよ?
シルエット的に見ても、突起ない方がスッキリしていいと思うんだけどな。

これだけたくさんのデザインが東京には溢れまくってるというのに、なぜ俺の求める帽子がないのか。
俺が間違ってるのか、東京が間違ってるのか。
とにかく、突起のないベレー帽がもっと増えるといいな。

2016年1月12日火曜日

リハ~エスケンラウンジ

おとといのことを。
きのう途中まで書いて、アップできず1日空いてしまいました。

今年初の、コロリダスのリハをやりました。
パーカッション宮本仁さんと。
柔軟でセッションから作っていけるミュージシャン。
いや楽しいな。
セッションになると、自分のラテンの引き出しのなさを痛感します。
ニューオリンズと、例えばサルサとかのラテンの感じって、全く別物なんですよね。
勉強しなくては。
そして、勉強したいと思わせてくれる仁さんに出会えたことが嬉しい。



夜は、自由が丘へ。
「エスケンラウンジ」という集まりに顔を出してきました。
エスケン=S-ken
東京ロッカーズの中心人物であり、S-ken&ホット・ボンボンズを経て、ワールド・アパートを設立、100を超えるアルバムをプロデュースしてる、偉人怪人です。
エスケンとその仲間の集う飲み会。
相変わらずのエネルギッシュぷりでした。

場所は、自由が丘Pousse Cafe
"粋"の先生マック・ロマンスが運営するお店。
マックさんは、お酒、音楽、アート周辺で活動が多岐に渡りすぎてて説明が難しいですが、とにかくセンス溢れる御仁なんです。

渡米する前に演奏していた、中山うりを通じて知り合った人たちです。
顔ぶれの中には、久しぶりの再会もあり、懐かしくて、嬉しい。
とはいえ以前だってライブの時に話す程度で、普段から飲みに行くような関係ではなかったんですよ。
でも、なぜか近しい気がする。

音楽を媒介にして繋がったからだと思うんですよね。
音楽って、演奏者の中身が丸ごと出るので、一音だけで、たくさん言葉を交わすよりも深くその人を知ることができます。
なんか、かっこいい言い方ですけど、これ本当。


久和田加代さんのミニ・ライブがありました。
ギターとデュオで、お店の雰囲気にも合ってて、良かったな。
飛び入りしちゃいました。
僕が適当に吹いてる横で、加代さんも適当に合わせてくるのが楽しい。
けんた君も一緒だったので、コロリダスの曲も披露してきました。
久和田加代のスペシャル・コーラス入りの「メガネちゃん」。
ギター福澤くんのプレイも刺激的。

盛り上がりついでに、アンコールではスプーンもやりました。
一応ね、ジム・クエスキンのツアーでもスプーンで数曲やってますからね、そこそこイケるんですよ。

ライブ後も飲みました。
はじめての人も多かったですが、居心地が良い。
それにしても、久しぶりに顔を出したのに、とても暖かく迎えてくれるのが、嬉しいです。
嬉しくて、写真を撮るなんて頭がありませんでした。
気になる方は、プース・カフェに行ってみて下さい。
誘ってくれたら、僕もいつでも行きますよ!

2016年1月9日土曜日

ジャズ・ポートレイト


イギリスから絵を買いました。
と言っても、実は中身の絵ではなくて、額が欲しかったんです。

ずいぶん前に、サンフランシスコに住むRyan Callowayというアーチストにクラリネットを譲りました。
彼は映画の仕事を始め、さまざまなメディアでデザインの仕事をしており、昔のジャズ・ミュージシャンのポートレイトも描いてますココで買えます。すげーカッコいいですよ!)。
で、その時、ポストカード大のものを3点もらったんですよ。

こちらです。
左は、アルフォンス・ピクー。
ニューオリンズ・クラリネットの、元祖のような人です。
ジョニー・ドッズやジミー・ヌーンを始めとする初期のマスター達の多くが、彼の門下生です。
先の曲がったクラリネットを吹いていたことで知られます。

真ん中は、バンク・ジョンソン。
初期のジャズを代表するトランペッターのひとりです。
1940年代のニューオリンズ・リバイバル・シーンの中心人物であり、ニューオリンズ独特の演奏スタイルの一つの流れを築いたと言える人物です。

右は、ジョニー・ドッズ。
僕の憧れのクラリネット奏者のひとりです。
ニューオリンズ・クラリネットの、ワイルド系流派の開祖。
ルイ・アームストロングの初期(歌い始める前です)のバンドでのプレイが、有名です。


せっかくなので額に入れて飾ろうと思ったら、日本とサイズの規格が違うため、大きさの合うフレームがありません。
それでずっと放置していたんです。

年末に、思い立って、オークションサイトのeBayをのぞいてみました。
海外から買えばサイズがあるはずですからね。
そしたら、額だけじゃなくて絵入りで売ってるのが結構あるんですよ。
その中で気に入ったのが、この3つ。
送料も入れて、ひとつ2000円くらいでした。

一週間くらいで到着しました。
さっそく絵を外そうとしたら、テープで止めてあります。
たまにアンティーク屋で売ってる海外の絵でこういうの見かけますね。

慎重に、テープを剥がします。
意外にすんなり剥がれました。

でも、これで終わりじゃありませんでした。
上の写真をよく見てください。
額の縁の内側に、ホッチキスみたいな金具がいくつも打たれています。
なんだろ?
額のに対して斜めに打って、最後まで打たずに先端を残してある。
おそらく、突起を作って絵を固定する目的だと思われます。

仕方ないので、釘抜きとペンチを使ってひとつひとつ外していきます。
これがけっこう固くて大変。
数も多いのでひと苦労です。

しかも、一気に抜けずに、針が途中で折れて残ってしまうことがあります。
写真の上辺の枠の内側、銀色の部分が少し飛び出ています。
これを、木の中に残らないように慎重にペンチで引っこ抜いていきます。
かなり深く刺さってるので、力が要ります。
またひと苦労です。

やっと針を抜き終わり、カバーを外します。

なんと、絵が台紙に貼り付けてあるじゃないですか。
しかも、雑に。
テープが変色しているので、かなり長い間そのままなのだと思われます。

台紙も外し、ようやく額として使えるようになりました。
自分の持っている絵を入れてみます。
絵だけでは裏側のカバーが沈みすぎるので、間に挟むためにダンボールを切ります。
また作業です。

最後に、絵を整え、蓋をし、テープで止めます。

できた!
本当に、ようやく、です。
額に入れるのに、こんなに手間取るとは思いませんでした。


うん、いい!

家で楽器を練習することも多いので、この3人に囲まれたなら、背筋も伸びることでしょう。
あとは壁に掛けるだけ。
楽しみです!