2017年5月26日金曜日

小説を読みます

近ごろブログの更新頻度が落ちたのは、小説を読むようになったからなんです。
ずいぶん長いこと小説なんて読んでなかったから、なつかしくて新鮮です。

高校時代までは、小説をよく読んでいました。
進学校だったので、岩波文庫をたくさん読むのが偉い、みたいな価値観があったし。
外国文学が多かった。
ヘルマン・ヘッセと川端康成が好きでした。
ヘッセの遺作の豪華本みたいなのも買ったくらい。
とにかく、過去の名作をたくさん読みました。

それが、音楽が人生の中心になって以来、もう20年も前ですが、本を読むといえば、音楽関係のものばかりになりました。
図書館の「音楽」の棚にある本を片っ端から、知らない音楽家の伝記や、触ったことのない楽器や馴染みのない音楽ジャンルについて書かれた本まで、手当たり次第に借りるようになって、小説を手に取ることはなくなりました。
たまに読むことがあっても、それは音楽絡み。
音楽を扱った小説や、ブラック・ミュージックが好きなので黒人文学はかなり読んだけど、それは純粋に小説を読みたい、という気持ちとは違いました。


ずっと音楽ばっかりだったのが、去年くらいから、また映画を見るようになりました。
そして最近になって、小説をも読みはじめました。
三島由紀夫や太宰治を読み返してみたり、東野圭吾もはじめて読みました。
だんだんなんとなく、現代の小説を読みたくなりました。

現代の小説は、あまり通ってこなかったんです。
家を出たハタチごろ、まだ音楽をやる前の数年間に、少し読んだくらい。
そのころ、山田詠美が好きでした。
そうだ大好きだったな、と思い出して、読み返してみたくなりました。
図書館で、『風味絶佳』を借りました。
実はこの本、アメリカ留学中、夏休みで帰国したときに、買って読んだことがあったんです。
とても感動して、アメリカに戻るときに持って行ったのに、空港かどこかに置き忘れてしまって。

短編集です。
久しぶりに読み返して、あらためて心をうばわれました。
例によって、内容はほとんど覚えていなかったので、はじめて読む感覚で味わいました。
文章が、いい。
情感があります。
ページをめくるのがもったいないほどです。
山田詠美の作品の中でも、そしていままで読んだ本の中でも、ナンバーワンかもしれない。


約20年のブランクのあとで、小説を読む楽しさを、知った気がします。
そうしてみると、読みたい本がたくさんある。
以前はブログを書いてた時間に、小説を読むようになりました。
しばらくは、こんなペースが続くでしょう。
どうかよろしく。

2017年5月21日日曜日

映画って、ストーリーだけじゃないでしょ。

ネットで映画の感想を探すと、たいていストーリーのことしか書いてない。
映画感想ブログなんつって、あらすじばっかりが長々と書いてある。
小学生の読書感想文かって。

ストーリーの良し悪しだけなら、映画じゃなくたっていい。
テレビだって小説だってマンガだっていいじゃん。
それ以外のいろんな要素が絡み合って、映画でしか味わえないものがあって、だから僕は映画が好きなんだけど、どうやら多くの人はストーリーにしか興味がないみたいです。
どうせ話がかみ合うわけないから、誰かに「映画が好き」と言われても、「俺も好き!」なんて返すことはせずに、慎重に距離をはかることにしています。
みんな大好きな”衝撃のラスト!”とか、まったく興味ないしね。


いままでの映画で心に残ってるのは、ストーリーじゃなくて、特定のワン・シーンであることがほとんどです。
セリフがない、たとえば風景が映るだけであっても、特別な情感が残るシーン。
いまパッと思いつくのは『シェルタリング・スカイ』の砂漠で抱き合う二人を空から撮るシーン、『マンハッタン』の夜明けの橋の下、『存在の耐えられない軽さ』の白く消えて行くラスト、『レイジング・ブル』の最後の、画面にすら映っていないシャドー・ボクシング、『バイバイ・モンキー』の冒頭のマストロヤンニの泣き顔のアップ。
どれもセリフのないシーンです。
『バイバイ・モンキー』なんて、ストーリーすら覚えてないもん。

そういえば、顔のアップで思い出すのは『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』の、デ・ニーロの顔を映して終わるラスト。
あの表情は、なんなのか。
説明できないからこそ、頭を超えて感情に刻まれるんですよね。
あと、きのう見た『カフェソサエティ』のラストのジェシ・アイゼンバーグの顔のアップも素晴らしかった。
表情というかもはや目と顔の緊張感だけで、いろんなものが伝わってくるんだもん。
いい役者って、ただセリフを覚えてそれっぽく言うだけじゃなくて、言葉やストーリーで説明できないものを表現することができるんですよね。
たとえば『冷たい熱帯魚』なんて、でんでんと吹越満じゃなかったら、つまんない映画だったと思うし。
ストーリー以外のそういう面白さが分からないと、映画の魅力って半減するんじゃないかな。


映画によっては、ストーリーを追うだけじゃ面白さの分からないものもあります。
たとえば『コットンクラブ』のラスト。
非現実的なシーンだと分からずに、2人で逃げてハッピーエンド、っていう風に解釈しちゃって、安易な終わりかただな、なんて思う羽目になる。
もっと有名な映画だと『インターステラー』もそう。
あのラストも、非現実だと解釈できるようになってる。
しかも、誰かの空想、などときっちり説明できない、あいまいなもの。
その、あいまいなのが、いいんじゃん。

映画じゃなくても、たとえばマンガでも、有名な『あしたのジョー』のラストのコマ。
ジョーが死んだのかどうかなんて考えてもちっとも面白くない。
あの、あいまいな、言い切らない、説明しないのが良いんじゃないですか。
『デビルマン』もそう。
解釈不能なラストが、名作度を高めてる。
ただ、このマンガの場合、作者自身が後に書き足して陳腐な説明を加えて駄作にしちゃったという、おかしなケースですが。
『デビルマン』は、書き足しのない「完全復刻版」を読まないとダメですよ!


言葉で説明できない感動っていう、映画ならではの魅力は、少なくともネット上の「映画ファン」の人たちには、アピールしないみたいです。
もったいないな、と思います。
映画ってもっと、人生を変えるくらいに面白いのに。
僕は『父の祈り』の終盤のダニエル・デイ・ルイスの表情に打たれて、その場で大学辞めて、本当に人生変わりましたからね。
そんな風にして映画に出会えた僕は、ストーリー重視の「映画ファン」よりもずっとラッキーだと、思ってます。

2017年5月19日金曜日

『マーク・リボー&デビッド・イダルゴ』!!

マーク・リボー&デビッド・イダルゴのライブにいってきた。
とてもよかった。
お互い1曲づつ交代で歌うんだけど、曲もその場で決めてるような、ゆるいライブ。
演奏しながら曲を探ってたり、どうやって終わろうか考えながら目を見合わせてる。
主催の麻田さんが開演前の挨拶で、「往年のロックスターが年老いて場末のバーで演奏してるような〜」みたいなことを言ってたけど、まさにそんな感じでした。
もちろん、ほめ言葉です。
あんな風に気負わずに自由にライブやれたらいいなー楽しそうだなー。
そして、こんなラフで生き生きした演奏を楽しめるお客さんが、クアトロ満員になるくらいいるってことは、東京の音楽ファンも捨てたもんじゃないと思いました。


マーク・リボーを知ったのはたぶんトム・ウェイツの『レインドッグ』です。
調子っぱずれのようにも聞こえる、キャプテン・ビーフハートを連想させるような、素晴らしく個性的なギター。
それ以来、好きなギタリストと聞かれるたびに名前をあげていたくらい。
昨日のライブではいろんなスタイルの曲をやったので、ギタリストとしてのすごさがあらためて実感できました。
音楽を、メチャクチャ聞いて研究してる人なんだろうな。
どんな曲調でも、ちゃんとそのジャンルの背景というか伝統というか、ツボを押さえた演奏をする。
けっして奇をてらったことはしないのに、強烈に個性的。
なんなんだろう。
音色なのか、発音なのか、タイミングなのか。
ジャズの語法で乗り切る「上手い」ミュージシャンとは、ぜんぜん違います。

そして、デビッド・イダルゴを見れたことが、単純にうれしかった。
ロス・ロボスは、グレイトフル・デッド、NRBQと並ぶ、大好きなバンドのひとつなんです。
でも、ライブがすごい!って評判はさんざん聞いてたのに、何度か来日してるのに、見に行ったことないんですよ。
今回はバンドじゃないけど、はじめて見た、デビッド・イダルゴ。
ギターのフレーズもいちいちカッコいいし、歌もすごくよかった。
ロス・ロボスって、ボーカルがすごくいいと思ったことは、実はないんです。
それが、実際に見ると違うもんですね。
とってもいいミュージシャンだという、分かりきったことを、生で見て実感しました。

驚いたのは、『ラテン・プレイボーイズ』から2曲も演奏したこと。
あれって、楽曲や演奏だけじゃない、サウンドも含めての作品と思っていたので、まさか弾き語りのライブでやるとは。
大々好きで何度も何度も聴いたアルバムですからね、そりゃ興奮しましたよ。
しかも、ライブの一曲目が "Manifold De Amour" だったんですが、イダルゴが弾くのは、なんとチェロ!
その一曲のためにチェロを用意していて、しかも決してチェロプレイヤーとして達者なわけでもなくて、それがライブのオープニング・ナンバーだなんて。
その気負いのないスタンスが、素敵です。


2人とも、上手く演奏する、とか、ミスをしない、とか、そんなレベルにはもはやいないんですよね。
キャリアのあるミュージシャンだし、もっと「上質」な演奏だって、できたでしょう。
でも、音楽って、そういうことじゃない。
人生を語る、言葉のない会話のようなもの。
それができるミュージシャンて、本当にあこがれます。
演奏のはしばしから二人の体験してきた音楽の歴史が聴こえてきて、さらにそれを共有できるお客さんがいて、とても幸福なライブだったと思います。
本当は、もっとカジュアルなお店で見るのがいいんだろうけど、まあ来日ということでは仕方ないですよね。

素晴らしいライブでした。
二人を呼んでくれたトムズ・キャビン、麻田さん、ありがとうございました!

(写真はTom's Cabinより)

2017年5月9日火曜日

『アーティスト』!!

『アーティスト』を見ました。

素晴らしかった!
内容からして、間違いなく好きだろうと予想はしていたけど、まさかここまで素晴らしいとは。

2012年に米アカデミー作品賞を取った、フランス製作の白黒サイレント映画です。
舞台は、映画がトーキーに移行していく時代のハリウッド。
落ちぶれていくサイレント映画のスターと、トーキーの新進女優のお話。
はっきり言って、ベタなストーリーです。
でも、その王道・定番さが、いい。
ツボを押さえたストーリーの上で、映像で魅せる映画です。

セリフがないことが、効果的です。
例えば、ケガをした主人公のベッド脇から、ヒロインが話しかけるシーン。
おそらく自分の毎日の出来事を、夢中で話して聞かせている。
話の内容がわからないぶん、イキイキと楽しそうな表情に目がいきます。
続いて、聞いている主人公の表情が映されると、とっても優しい顔をしてる。
幸せな気持ちが、伝わってきます。
このシーンにセリフがあったら、会話の内容に意識がいってしまう。
でも、言葉の情報がないおかげで、そこで二人がどんな気持ちでいるか、っていうことだけが、見えてくる。
実際に、好きな人と話すときって、内容は重要でなかったりしますからね。

そんな素敵な場面がたくさんあります。
ふたりが初めて映画で共演する、パーティのシーン。
主人公がダンスのパートナーを変えていって、彼女と踊る番になると、笑ってしまって何度もNGを出してしまう。
どんな会話をしてるのかわからないけど、音楽が流れて二人の姿があるだけで、距離が縮まっていく様子が手に取るように感じられて、涙が出そうになりました。
もしセリフがあったら、ここまで胸に迫ることはなかったと思います。

圧倒されたのは、ラスト近く、銃を持った主人公をヒロインが止めに入るシーン。
それまで流れていた音楽が突然なくなって、無音になり、必死で説得する彼女主人公のやりとりが、ずっと無音の中で映される。
セリフが、そして音がないということが、こんなに胸にせまるなんて。
このシーンの間、僕は息もできないくらいの感動にのまれていました。
ある場面、ある箇所、というのではなくて、シーンの間ずっと心が揺さぶられ続けるなんて、はじめての経験です。
サイレントの力強さに、打ちのめされました。


中盤からは、もうトーキーの時代になっていますが、映画自体はサイレントのまま進んでいきます。
いよいよ音が付くのは、ラストのダンスシーン。
まずはステップの足音が聞こえてきて、ハッとします。
そして、最初に発せられる「声」は、躍動感あふれるダンスの最後、画面に向かってポーズを決めた2人の、なんと、息切れの音!
こういう、言葉では説明できない感動こそが、映画の醍醐味です。
しかも、このシーン自体が、サイレントからミュージカルへと続く古典映画へのリスペクトになっているのだから、打ちのめされます。

このシーンに限らず映画全体に散りばめられた過去の作品へのオマージュについては、賛否あるようですが、僕は好きです。
ただ引用してるのではなく、敬意が感じられて、その愛情が見る側にも伝わるから。

そして、単なるハッピーエンドではない、懐古趣味なんかではない、心に残る終わりかた。
感動に力がぬけて、疲れ果てたような心地よさが襲ってきました。
こんな風にして、疲れるほどに心が動かされる映画は、そうはありません。
他に思いあたるのは、『アンダーグラウンド』『ペーパームーン』『蜘蛛女のキス』くらいかな。

白黒・サイレントの力強さ。
隅々まで情感にあふれた、素晴らしい作品です。
見てよかった。


2017年5月2日火曜日

N.O.生活24 - Michael White とニューオリンズ・ジャズ

現在のニューオリンズでいちばん尊敬するミュージシャンは、マイケル・ホワイトです。
ニューオリンズを代表するクラリネット・プレイヤー。
定期的にN.Y.に呼ばれてウィントン・マルサリスのバンドで演奏し、エリック・クラプトンやポール・サイモン、タジ・マハールといったポピュラー・ミュージックのスター達からも録音メンバーに指名される。
CNNなどテレビ曲がニューオリンズを扱うドキュメンタリーを作るときにも、マイケルに取材をします。

しかし、ニューオリンズの音楽シーンでは、マイケルの評価は高くありません。
人気はあるんですが、それは一般の人々の間でのこと。
ミュージシャンからの評価は、はっきり言って低いんです。

理由のひとつは、マイケルはトラディショナルなスタイルしか演奏しないこと。
古いスタイルのニューオリンズ・ジャズをやるミュージシャンは、もはやほとんどいません。
現在のニューオリンズで聞かれるのは、スイング・ジャズ風のものばかりで、伝統的な泥臭いスタイルは好まれない。
なぜなら、いわゆる「ジャズ」的な要素がないから。
音楽的にシンプルすぎるので、一段下に見られてしまうんです。

もうひとつの理由は、マイケルが上手いプレイヤーではないことです。
実際、ピッチは悪いし、タンギングも粗いし、楽器もきちんと鳴っていない。
特にピッチとタンギングについては、クラリネット以外の楽器のミュージシャンであっても、一聴してわかるくらいです。
自身のアルバムの場合、レコーディング後の編集段階で、大幅なピッチ修正を行うとも言われています。

ニューオリンズのミュージシャンの多くはジャズ志向です。
ジャズとはテクニックが重視される音楽です。
マイケルはテクニックで勝負する音楽家ではないので、レベルの低い音楽をやってるヘタクソな奴、と思われているんです。 


マイケルへの評価は、とても象徴的です。
全米、そして世界的にも、ニューオリンズを代表するクラリネット奏者。
それが現地の音楽シーンでは、ヘタな奴と思われている。
一般の音楽ファンの価値観と、ニューオリンズ音楽シーンの価値観が、かけ離れている。
世界中の人々が愛するニューオリンズのイメージは、現地にはもう存在していないということです。
人々が惹かれるのは、テクニカルな部分ではありません。
ニューオリンズ独特の、リズムとハート。
現地でそれを体現しているのは、もはやマイケルと、その相棒のトランペッター、グレッグ・スタッフォードだけなんです。

伝統的なニューオリンズ・ジャズへの思いを誰とも共有できない、という悩みを、マイケルに話したことがあります。
マイケルは言います。
自分のライブはギャラが高いから、いいミュージシャンを雇って、リズムを指示して演奏させることができる。
彼らはいい仕事をするけれど、自分でレコードを買って家でも聴いてるとは思えない。
ニューオリンズ・ジャズに関心のあるミュージシャンは、もはや自分とグレッグ・スタッフォード以外は、1人も残ってないんだよ、と。
ズバリと言い切られて、ショックでした。
マイケルでさえ、一緒に音楽を共有できるミュージシャンを集めることができない。
それじゃあ、僕がいくら探したって、出会えるはずがありません。


マイケルも、音楽シーンでの自分の評判を知らないはずはないでしょう。
でも、何を言われようと、自分のやっていることに自信を持っている。
子供の頃から年上のミュージシャンに混じって演奏しながら音楽を体得してきた、という自負。
伝統を受け継ぐ、という意志。
そして、町の人々の踊る姿や話す様子を思い浮かべながら演奏している、と言う、それは、ニューオリンズ・ネイティブでしか体現できないことです。

楽器のテクニックが磨かれてないのは、その必要がないからじゃないかと、思います。
ニューオリンズ・ジャズをやるのに、なめらかなフレージングや、早いパッセージは不要です。
ピッチが合ってるかどうかも、重要ではない。
いやもちろん、上手いに越したことはありません。
でも、それよりも、もっと考えるべきことがたくさんあって、そうしていると、技術面のことへ向ける意識が少なくなるんですよ、きっと。
それは、空気感だったり、伝統的な「訛り」のことだったり、さらに人々の踊る姿なんていう音楽と無関係なことまでイメージしていたら、音の細部に向ける集中力は、そんなにたくさん残らないんじゃないか。
マイケルと話し、その演奏を聴いて、そんなことを考えます。


マイケルの音楽は素晴らしいと思います。
録音では、アラが目立つこともあるけれど、ライブは本当にスピリチュアルで感動します。
この感動を共有できるミュージシャンがニューオリンズにはいない、この音楽の価値がニューオリンズの音楽シーンでは評価されないという事実。
僕が惹かれたニューオリンズ・ジャズの伝統は、マイケルとグレッグがいなくなったら、途絶えてしまうのかもしれません。


2017年4月28日金曜日

平和な家庭にロックは似合うか

駅のロータリーで、ガンガンに激しいロックが聞こえてきたので振り返ると、乗用車から小学生の子供と母親が降りてくるところでした。
運転席にいるのは、スーツを着た40代くらいの男性。
ごく普通のサラリーマン一家に見えます。
車から流れるハードなロックと平和そうな家族の姿の組み合わせに、どうにも違和感を感じてしまいました。

ロックの好きな40代サラリーマン。
学生時代には、バンドやってたのかもしれない。
ちょっとモテたりして。
そこそこいい大学からそこそこいい会社に就職して、悪くない暮らしをしてる。
友達の中にはいまでも音楽やってるやつもいて、年一回くらい一緒に飲むこともある。
子供がロックよりもアンパンマンやポケモンに興味を持つのが、ちょっと不満。

そういう人は、きっとたくさんいるはず。
でも、妻と子供を送る車でロックをガンガンかけるのは、めずらしいんじゃないか。

じゃあ小さな音なら、いいのか。
想像してみると、それでもまだ引っかかる。
たしかに、大音量ってことも気になるけど、それが問題ではないのかもしれない。
これがジャズやクラシックやJpopだったら、音が大きくても、ここまでの違和感はないんじゃないか。
つまり、激しいロックは、平和なサラリーマン家庭には似合わない、っていうことなのか。

僕なんか、会社に勤めた経験もないし、サラリーマンの友達も多くはない。
会社勤めの人たちがどんな音楽聞いてどんなふうに生活してるのか、何も知らない。 
かわりに、ロックには詳しいです。
詳しいので、ロック=不良みたいなステレオタイプのイメージは、持っていません。
ロックやパンクを聞いてる人にだって、常識と社会性のあるマジメな人たちは多いってことも、知ってます。

そんな僕でも、平和なサラリーマン家庭のイメージとロックの組み合わせに、違和感を感じてしまう。
なんてことだ。
俺もしょせん偏見まみれなのか。
あらゆるバイアスや偏見から自由になりたいと、ずっとやってきたのに。

そして、そう思ってる自分ですら偏見から逃れられないんだから、そんなこと考えてないたくさんの人たちが、ミュージシャンを白い目で見ることは、とっても当たり前のことなんだよなー。
と、あらためて気づいたのでした。

2017年4月24日月曜日

GWO・町田謙介・井上民雄

土曜は町田謙介=マチケンさん、日曜はStumble Bumの井上民雄さんと演奏しました。
しかもマチケンさんにはGWOのギターもお願いしたので、GWO、マチケン、井上民雄、というスタイルの違う3つのライブをやったわけです。

GWOは、どれだけボーカルに近づけるか、というのがテーマです。
今回は、マチケンさんの極上のバッキングに乗って、まさに「歌うような」演奏ができました。
リハもろくにしてないのに、全体の完成度はかなり高かった。
さすがマチケンさん。

続くマチケンさんが主役のステージは、よりセッション的なものでした。
マチケンさんのミュージシャン・シップが高く、こっちも一瞬も気が抜けない。
レパートリーもバラエティに富んでいるので、曲ごとに僕のアプローチも変わる。
やってて気づいたけど、曲によって、バイオリンやオルガンやホーンセクションの音が、アレンジとして頭の中に鳴って、それをクラリネットに置き換えてるんですよね。
過去に聞いてきたルーツ・ミュージックの影響です。
こういう、クラリネット奏者らしからぬアプローチが、僕の個性なのかもしれません。

民雄さんとのライブは、楽曲が素晴らしく完璧なので、余計な音が出せない。
いかに邪魔をせずに曲のイメージを広げるか。
こんなに緊張感のあるライブは久しぶりでした。
そして、オリジナル以外に、 ブラインド・ブレイクなどのカバーをやりました。
カントリー・ブルースのボーカル・パートを、クラリネットに置き換える、という試み。
GWOのときの十分の一くらいの音量で、もちろんアドリブなんかナシで、淡々と吹きます。
100年前の音楽を100年前の楽器でやってるんだけど、これ、最先端ですよ。
他にやってる人いないもん。


僕はもともと、ニューオリンズ・ジャズのスタイルのクラリネット奏者です。
でも、いつの間にか、変わったことばっかりやるようになってしまった。
いまでは、一般的な管楽器奏者がやるような(いわゆる「ジャズ」寄りの)演奏は、月イチくらいしかありません。
いいのか、わるいのか。
はたして自分は、クラリネット・プレイヤーと名乗っていいのか。
もはやミュージシャンではないような気にすらなります。

そう、GWOを始めてから、このユニットだけは毎回ライブレポートを書いてたんですが、それももうこだわらなくていいかな、と。
もはや自分の音楽の主軸がどこなのか、わからないので。
全国のGWOライブレポートファンの皆様には申し訳ありませんが、今後はより気の向くままに、やっていきます。
いろんなことを。



2017年4月17日月曜日

N.O.生活23 - 消えゆく伝統

Moonshiners の解散でレギュラーライブはなくなり、いつも違うバンドで演奏するようになりました。
とはいえ、中身はそれまでとほとんど変わりません。
古いジャズをやるミュージシャンは大勢いて、いろんな店でローテーションのようにして演奏しています。
曲や音楽スタイルも似ているし、そもそも誰も彼もみんな知り合いですからね。

そうして大勢と演奏するうちに、気づいたことがありました。
みんなニューオリンズ・ジャズの過去の録音を知らないんです。
例えば、ニューオリンズ・ジャズの復興に大きな役割を果たしたプリザベーション・ホール・バンドのレパートリーなんか、本当に誰も知らない。
なぜなら、みんなレコードやCDを買わないからです。
スイング・ジャズ曲の譜面集を手に入れて、観光客が知ってる有名曲を覚えて、おしまいなんです。
それでチップはもらえるから。

曲を取り上げるとき、過去の名演があればそれを踏まえて演奏するべきだと、僕は思うんです。
どう演奏するにせよ、その曲の歴史を知ってリスペクトすること。
そういうスタンスが、古いベテラン以外の、特に若いミュージシャンには全くない。
ライブで「ニューオリンズ・ジャズ」と看板をかかげていても、それを勉強する気がないんですよね。
お客に受ける有名曲をやってチップが入れば、満足してしまう。

あるとき、ステージで僕が "Yearning" をやろう、と言いました。
その曲を知っていたのは、ベテラン・ドラマーのジェラルド・フレンチだけ。
めったにやらない曲をなので、ジェラルドはきっと嬉しかったんでしょう、他のメンバーが誰も知らないのに、やろう!と言って叩きはじめてしまった。
仕方ないので、僕がみんなにコードを伝えながらメロディを吹いて、なんとか演奏した、ということもありました。

一緒に演奏していても、周りのメンバーと曲の背景やイメージを共有できないことが、僕にはストレスでした。
だって、僕はニューオリンズ音楽が好きで、聴いて聴いて、海を渡り、その音楽が生まれた地で愛する音楽を演奏している、はず。
それなのに、バンドの誰一人として、ニューオリンズ音楽をリスペクトしていない。
これなら、日本にいたときの方が、ニューオリンズ音楽への思いを共有しながら演奏できていた。
音楽が好きで来たのに、いまではチップを稼ぐのが目的になってる。
なんのために、ここへ来たんだろう。
と、思いながら、毎日ライブをしていました。


ニューオリンズ・ジャズが好きで渡米してくるミュージシャンは、もちろん今までも何人もいたわけです。
でも、いざ来てみると、実は町で演奏されている音楽は、ニューオリンズの伝統とはすでに別モノと化している。
みんな失望して、数年のうちに町から去っていく。
というのが、ここ10年以上のパターンだそうです。
その話を聞いたとき、とても悲しい、絶望のような気持ちになりました。

僕がいたときは、ハリケーンを境に若いミュージシャンが増えたこともあって、その傾向に拍車がかかっていました。
もう町では、ニューオリンズ音楽の伝統は過去のものとして消えかけていたんです。

2017年4月13日木曜日

N.O.生活22 - Moonshiners 解散

なんと前回から5ヶ月も空いてしまいました。
このペースでは、終わらない!
駆け足で進めることにします。
今回は、バンドの顛末を。

ゴードンがニューヨークへ去ったあとも、Moonshiners は順調でした。
小さな店だけではなく、DBAなど大きめのクラブや老舗ジャズ・クラブのスナッグ・ハーバーにも出るようになり、プライベート・パーティなどの演奏も増えました。
ジャズ&ヘイテイジ・フェスティバルやフレンチ・クォーター・フェスティバルへも出演し、ニューヨークにも呼ばれてリンカーン・センターで演奏しました。

そんなある日、事件が起こりました。
バンドのミーティングというので集まって、みんなで雑談していたときのこと。
リーダーのクリスが、大事な話がある、と言います。
Moonshiners を法人化し、今後は仕事に応じてその都度ミュージシャンを雇うことにする。
みんなを雇うこともあるかもしれないが、保証はできない。
いま持ってるレギュラーの仕事は自分が全て引き継ぐ。
アルバムの売り上げも今後は会社に入る。
と、言うのです。 
なんと、全員クビですよ!

クリスは、しばらく前から準備を進めていたようです。
すでにバンドは法人登録されていました。
メンバー全員に、バンドに関する権利を放棄し今後Moonshinersの名前を使わない、というような書類が用意されていて、手切れ金のようなものを提示されました。

そんなことって、あるのか。
Moonshinersは、クリスとトロンボーンのチャーリーが二人ではじめたバンドです。
それからみんなで一緒にやって、大きくしてきました。
それを、軌道に乗ってきたとたんに裏切るなんて。
僕は学生だけど、他のメンバーは生活にも関わります。
毎月そこそこの収入があったものが、突然なくなるわけですから、大ごとです。

もちろんみんな怒りました。
しかし、全ては手配済み。
クリスは弁護士も立てていて、次の大きなライブにはすでに町のベテラン・ミュージシャンが呼ばれていました。
ベテランを雇うことで、他の若いトラディショナル・バンドと差別化して、より大きな仕事を取りたい、という考えのようです。

揉めましたよ。
でもけっきょく、クリスのやり方が通りました。
そんなことがあったあとで、とても一緒にやれないし。
みんな手切れ金をもらって、実質バンドは解散です。
Moonshinersの名前は残るけど、中身は別物ですからね。


こんなこと、まさかニューオリンズで起こるなんて。
ニューオリンズの魅力は、人です。
みんな助け合って生きてる、あったかい町。
あれだけふくよかな音楽が生まれるのも、人のあたたかさがあるからです。
仲間の裏をかくなんてあり得ない。
ショックでした。
クリスとも、いい思い出はたくさんあったのに。

ニュースはすぐに広がり、Moonshinersはそれまでいた音楽シーンから消えていきました。
フェスティバルには出ていたし、プライベート・パーティやホテルでの演奏などは、まだあったのかもしれません。
が、町のミュージシャン同士のつながりからは、クリスはもう外れてしましました。
そりゃそうですよ。
わかってたはずなのに、なんであんなことしたんだろう。


アメリカの友達の近況は、いまでもFacebookなどで知ることができます。
Moonshinersの仲間も、みんなそれぞれ順調に音楽活動を続けている。
でも、クリスの噂は聞きません。
クリスもFacebookに登録はしてるけど、ミュージシャン仲間とはほとんど繋がっていなくて、投稿もしてません。
MoonshinersのHPも数年前から更新されていない。
その後、彼がどうしてるのか、分かりません。

2017年4月10日月曜日

エゴのない音楽が好き

ミュージシャンには2種類います。
Aタイプは、音楽 < 自分。
自分を表現する道具として、音楽をやってる。
上手く演奏したい、注目されたい、という気持ちが強い。
Bタイプは、音楽 > 自分。
俺の表現を聴け!というのとは逆で、音楽に同化してエゴを消したい。

僕はBタイプの音楽が好きです。
ちなみに、ニューオリンズ音楽もBの方の要素が強いと思うけど、日本で「ニューオリンズ」とうたってやってるミュージシャンのほとんどは、Aタイプなのが悲しい。

Bタイプのような、いわばエゴのない音楽って、そもそも音楽ビジネスに向いてないんですよね。
だって、お金を儲けることと対極のスタンスなわけだから。
生活の一部としてローカルなシーンで大事にされている例えば伝統音楽や宗教音楽に、たぶん近い感じ。

っていうようなことを少し前の花見の席で話したんだけど、どうにも伝わらなくてもやもやしてしまったので、ブログ書いてます。


エゴのない表現というのは、こないだ見に行った「アウトサイダー・アート」に通じる気もします。
彼らは、邪念がない。 
人気や評価やお金を得るのが動機じゃない。
絵を描きたいから描いてる。
その、描きたい!という、気持ちの源泉みたいなものが、色や構図やモチーフや技法やコンセプトなんかを飛び越えて、にじみでてくる。
それが、いい。

音楽でも「アウトサイダー・ミュージック」という呼び方があります。
いわゆる障害者の演奏だけではなく、広く「ちょっと変な」「狂気を感じる」「ピュアな」音楽を含めて使われています。
ずいぶん前に、『アウトサイダーミュージックのおもろい世界』という編集盤を買ったら、そこにはダニエル・ジョンストン、シャグス、レジェンダリー・スターダスト・カウボーイなどの、僕の愛する「ロック」ミュージックも入っていて、なるほど、と思いました。
中でもダニエル・ジョンストンは、「ピュアさ」が際立ってる。
まあ彼は実際、メンタルも不安定なんだけれども。

高度な技術を駆使した上質な表現も素晴らしいと思うけど、それよりもなぜか、拙くてもエゴのない表現にひかれてしまう。
なんでなんだろうか。


偶数月に、バンジョーの坂本さんと演奏してます。
坂本さんは、ピュアです。
仙人みたい。
なんの欲もエゴもなくて、息をするみたいにポロンポロンとバンジョーを弾く。
僕も坂本さんの隣で、自分を空っぽにすることを意識して演奏します。
それでも、あとから録音を聴くと、坂本さんと比べて自分がまだまだ「上手く演奏したい!」という色気にまみれていることが分かって恥ずかしい。  

ちなみに、まるで対極のようなGolden Wax Orchestraのときも、自分のエゴを消すつもりで、やってるんですよ。
そう思って聴いてみてください。
わかってもらえたら、うれしいです。

2017年4月5日水曜日

アーヴィング・ペンを知った

写真集を買いました。
『アーヴィング・ペン全仕事』

大判、194ページ。
展覧会のカタログとして編まれたものなので解説が多く、読みごたえがあります。
そのぶん写真が小さい箇所もあるけど、入門用としては、いいのかもしれない。

そう、この写真集は僕にとって、まさに写真入門。
積極的に写真を見ることは、いままでなかった。
いろんな写真に接することはあっても、かっこいいなーくらいにしか思わない。
心が動かされることが、なかったんです。
写真や絵は、分からないと思ってました。
向いてないんだろう、と。

きっかけは、先月、ポートレイト撮影の被写体になったこと。
打ち合わせ段階で、参考にと見せてくれたのが、アーヴィング・ペンの写真でした。

ピカソやマイルス・デイヴィスの写真など、見たことあるものも多い。

衝撃を受けました。
すばらしい。
それから撮影までの数日間、毎日パソコンの画面でアーヴィング・ペンの写真を眺めては、ため息をつきました。


調べてみると、ファッション写真家として有名なんですね。
VOGUEの表紙など、目にしたことのある写真も。
数年にわたってイッセイ・ミヤケの写真も手がけていて、それらは一冊にまとめられています。

「芸術」「作品」寄りのものもあって、そういうのもいいんだけど、やっぱり心が動かされるのはポートレイト写真です。
もっとじっくり見たい。
手元に置いて、好きなときに眺めたい。
と思って、写真集を買いました。
特定のカメラマンの写真集を買うのは、生まれてはじめてです。
本当は、『Portraits』という写真集がほしかったんですけどね。
高い!
これ、どこを探しても2万円くらいします。
いつか買いたいけど、いつになるか。


それにしても、この状況ってどうなの?
アーヴィング・ペンなんて、写真の歴史における重要人物のひとりでしょう。
その作品に気軽に触れることができないって。
僕が今回買った本だってもう絶版で、探して安く手に入ったからいいけど、Amazonの中古相場は8000円くらい。
ペンの写真集はだいたいどれも10000〜20000円以上します。
他に教えてもらった中で、ヨゼフ・クーデルカの作品も気になるんだけど、写真集はやっぱり安くて5000円からで、1万円以上も普通のよう。
図書館にも置いてない。

せっかく写真に興味を持っても、そこから先に進むのに敷居が高すぎます。
過去の重要作品くらい、誰でもアクセスできる環境になればいいのに。
そうしないと、わかる人だけわかればいい、「お芸術」になってしまうと、思うんですけどね。

こんなにも写真に出会いづらい現状で、アーヴィング・ペンを教えてもらえたことを、とても嬉しく思います。

2017年3月31日金曜日

エキゾチカ参考音源3 - インドネシア&ペルー

大石さんが教えてくれた中で、もうひとつ強烈だったのが、1950年代インドネシアの音楽。


これはヤバイね!
なんだかわかんないけど、とにかくヤバい!
大興奮です。
ここら辺の音楽は、馬場正道さんが詳しいとのこと。
どこかで名前を知っていても、面識はありません。
馬場さんはお店もやってるというので、さっそく行ってみました。

鷹の台にあるカフェ、KIKI RECORD。
どんなマニアックな店かと思いきや、すごくオシャレでびっくり。
脇にはレコードを売ってるコーナーもあるけど、一見すると普通のカフェです。
近くの大学の学生が、コーヒー飲んでます。

カウンターに座って男性店員に話しかけたら、馬場さんは今日は店には来ないかも、とのこと。
残念。
来たいきさつを説明すると、レコード棚に行って、インドネシアものを何枚かピックアップしてくれました。
でも、僕も彼もインドネシア語(?)は読めないし、どれが「当たり」なのか見当もつかない。
コーヒーを飲みながら、隣のお客さんも交えてしばらく話して、あしたまた来ます、と言って帰りました。


そして翌日。
店に入ると、カウンターに冒頭のYoutubeの音源のオリジナル盤が用意されているじゃないですか!
しばらく話してると、やがて馬場さんがやってきました。
そこからがすごかった。
いろんなレコードを次々と出してきて、聴かせてくれます。
インドネシア音楽というとガムランとクロンチョンくらいしか知りませんでした。
でも、もちろんポピュラー音楽寄りのもあるわけで、たとえばロックやジャズをやってる中に、欧米にはない不思議なセンスが混じってるのがたまらない。
なんと奥深いインドネシア音楽!

と、たっぷり聴かせてもらったけれど、どのレコードも安くない。
お目当てのChris Biantoroすらもあきらめました。
権利のややこしさから、インドネシア音楽は再発売が難しいそうなので、これがCD化などされる可能性は低いでしょう。
お金をためてレコードを買うしかなさそうです。
いつか!
今回は、記念撮影だけ。

それにしても、音楽好きの人と話すのは楽しいですね。
馬場さんからは、インドネシアのレコード事情やら、面白い話がどんどんでてきます。
時間がいくらあっても足りない。 
名残り惜しかったけど、また来ますと約束して、帰りました。
名店を見つけてしまった。
近ければ、通っちゃうだろうな。



さらにリサーチを続けるうちに出会ったのが、アルゼンチンのRoland Bruno。
この、いなたさ!
ビジュアルも含めて最高です!

この曲とか、もうたまんない!

調べてみると、数年前に来日してて、なんとUFO CLUB でライブやってるじゃないですか!
見たかったなー。


紹介文の中に、「現代版チーチャ」というフレーズが。
たどっていくと、チーチャは1960〜70年代に流行した、ペルー流クンビアだそうです。
本家コロンビアのクンビアとは違い、エレキギターがメロディを取るのが特徴のようです。
クンビアのビートに、サーフ、ガレージ、サイケ、といった欧米のポピュラーミュージックの要素が混じりあっている。
エレキのB級感が素敵です。

チーチャの人気は一時期だけで廃れてしまい、それが本国以外で再び注目されたきっかけは、2007年リリースの『The Roots Of Chicha』 というコンピレーション。

ニューヨークの音楽レーベル・オーナーOlivier Conanが、ペルーに旅した際にチーチャに魅了され、買い集めた音源をまとめたものです。
彼はチーチャ熱が高じて自分でもバンドを作り、2枚のアルバムをリリースしています。
バンド名はズバリ Chicha Libre。

チーチャのメロディって、かなりツボなんですよね~。
こんなフレーズをどんどん紡ぎだせるようになれたら!
日本でこういうのやってるバンドいたら、だれか教えてください。



というわけで、エキゾチカ・プロジェクトのために聴き漁った音楽を、3回にわたって紹介しました。
こんなにひたすらリスニングに時間を割くことなんて、めったにありません。
特にまだリハーサルを始める前のひと月くらいの間は、楽器の練習時間さえ惜しんで聴いてばっかりいましたからね。
この膨大なリスニングの効果は、果たしてどれくらいあるのか。
それはまったくもって不明です!
いいんです、好きで聴いてるんだから!

2017年3月29日水曜日

管楽器奏者は風邪に弱い

風邪をひいてしまった。
今シーズン初、じゃないかな。
まあ風邪といっても、寝込むほどじゃなくて、熱もないし、しんどいことはない。
喉がたぶん少し腫れて、鼻が出るだけ。
わりと普段とかわりなくやれます。

それでも、たとえ軽い症状であっても、喉が痛むと大変です。
楽器を吹くと喉を使うみたいで、どうしてもなかなか治らない。
だから、喉が気になるときは、大事をとってできるだけ家で休むようにします。
もちろん、演奏の予定が続いてるとそうはいかなくて、休んで回復したのが楽器を吹いてまた悪化して、帰ってまた休んで、という追いかけっこです。

いいのか悪いのか、演奏をしてる最中は、具合が悪いことなんてすっかり忘れてしまう。
これは、風邪じゃなくても、どっか痛かったり他の病気であっても、そうなんです。
演奏中はつらさも痛みもなくなる。
なんか麻薬みたいな効果のある脳内物質でも出てるんでしょう。
だから、よっぽどの重症でなければ演奏に問題はなくて、それが分かってるから、演奏を休むことはありません。
実際、演奏の予定に穴をあけたこと、ないと思います。


そういう時って、楽器の練習もひかえるから、家にいるとヒマです。
喉以外は悪くなかったりするので、何かコピーしたり譜面書いたりしようとするんだけど、どうにも集中できなくて。
気分も浮かない。
映画を見るくらいかな。
それも、外に出てレンタル屋まで行くのがおっくうです。
それでボーッとしてると、案外とすぐに時間が経ってしまう。


管楽器やってる人って、こういうときみんなどうしてるんだろう。
ギタリストやピアニストは、具合が悪くても平然と家で楽器を弾くんだろうか。

というとりとめもないことを考えながら、ライブを終えてやはり喉が荒れてしまった気がする帰りの山手線の中で、これを書いています。
明日には治るといいな。


※ 今日のライブ会場が素敵だったので写真を載せときます。鶯谷Lovers。

ミュージシャンの名前が覚えられなくてさみしい

音楽の話をしていてコンプレックスを感じることがあります。
データを、おぼえられないんです。
曲名、ミュージシャンの名前、どのバンドに誰がいた、とか、何年録音のどのアルバムにどの曲が入ってた、とか、どこのレーベルがどこにあった、とか、ぜんぜんおぼえられません。

僕が好きな音楽は、マイナーなものが多い。
そういうマイナーな音楽を好きな人って、細かいデータをすごくよくおぼえています。
いわゆるバックミュージシャンの名前は知っていて当然だし、どの曲が何年にどのスタジオで録音されたか、特定のレーベルの何年頃の録音にはアイツが関わってるはずだ、とか。
そんな会話が普通に、本当に普通に、みんな楽しそうに話してる脇で、僕は実はまったくついていけません。

聴いてる量は、みんなと変わらないはずです。
話題にのぼるミュージシャンの名前は、たいてい知ってます。
知ってはいるんだけど、その人がどの音源に参加してる、というようなことは、記憶から抜け落ちてる。
僕はCD世代で、CDを聴くときは、ライナーノートを読み、ミュージシャンのクレジットにも目を通しながら、このギター○○なんだ!とか思って聴いてるんだけど、それをすっかり全部忘れちゃう。


僕がいちばん深く聴いてきたのは、ニューオリンズ音楽です。
この音楽に関しては、少なくとも日本で僕より聴いてきたヤツはいないだろう、というくらいに、たくさん聴いてきました。
それでも、人名はおぼえてないんですよ。
こんなに聴いてきて、誰よりもその感覚をわかってるぜ!というくらいの自負もあるのに、みんなの会話についていけない。
ニューオリンズ音楽を好きな人の会話には、ミュージシャンの名前がポンポン出てくるのが普通だから、よけいに。

ニューオリンズ音楽でさえ、そうなんです。
本当に、おぼえられないんですよ。
おぼえようと思って、ミュージシャンの相関図やデータ本を読んだりもしたし、自分でノートにまとめたこともあります。
でも、ダメでした。
このリズム最高だ!って思ってあれだけ何度も聴いた曲のドラマーの名前さえ、思い出せない。
ぜったいに俺ほど聴きこんでない、別にそんなに音楽愛してないだろう友達の口からミュージシャンの名前が次々と飛び出すのを聞くと、もどかしく感じずにはいられません。


なんでだろう。
自分が演奏するのでも、曲の構成、特に繰り返しの回数とかがおぼえられない。
何回やったらサビにいって、最後はこのフレーズを何回くり返す、とかいうことが、苦手なんです。
まあ回数をおぼえてなくてもちゃんと演奏できるし困ることはないんだけど。
それどころか、数を数えようとするとかえって間違えてしまいます。

音楽だけのことじゃなくて、昔から、とにかく記憶するのが苦手なんです。
なんでもウソみたいに忘れちゃう。
記憶にある出来事が、本当にあったことなのか、空想上のことなのか、わからない。
たとえば親と昔の話をしてると、身に覚えのないエピソードばっかりです。
数年前のことだって忘れてて、一緒にいた友達にビックリされたりします。


小・中・高校まで一緒に通った、鈴木くんという友達がいました。
彼は、記憶力がズバぬけていた。
何月何日にあそこでだれが何て言ってどんな服を着ていて何時ころでそのあとどうした、とかを、細かいディテールまで正確におぼえてる。
数字や雑学にも強くて、いろんな面白い話を知ってるので、人気者でした。

高校時代のあるとき、彼が言うんです。
お前がうらやましい、って。
自分は見たものを何でも忘れられなくて、かえって困る。
さっきすれ違った女の子の靴下の色までおぼえてる。
おぼえる気がなくても、目に入ったら記憶してしまって、かえって不自由な気がする。
忘れられるのがうらやましい。


どっちがいいか悪いかは、わからない。
忘れちゃう、っていうのは、身軽な部分もあるのかもしれない。
それでもとにかく、まわりの音楽の話についていけないのが、もどかしいんです。
みんな、固有名詞を使わずにしゃべるわけには、いかないんだろうか。


2017年3月22日水曜日

ブギウギの「コンサート」に行った

「BOOGIE for SPRING」と銘打った、斎藤圭土&ベン・ウォーターズのコンサートに行ってきました。

ベン・ウォータースは、イギリスのロック界で活躍する人気ピアニストで、チャーリー・ワッツとバンド組んだりしてる。
彼が日本に旅行で立ち寄ったついでに、交流のある斎藤圭土が急遽ライブを手配したそうです。

斎藤圭土は「ブギウギ・ピアニスト」の肩書きでレ・フレールというピアノ・デュオを組んでいて、国内クラシック部門でものすごく売れているそうです。
お客はたぶんみんな斎藤圭土目当てで、クラシック・ファン独特の雰囲気が漂います。
いちばん最後には客席から「ブラボー!」の声が飛びましたからね(クラシックのお客って、「ブラボー!」って言うんですよ。)。

この二人の演奏が対称的でした。
ベン・ウォータースは、「ブギウギ」という言葉のイメージ通りのピアニストです。
ガンガン叩くように弾いてピアノを揺らして、とにかくリズムがすごい。
茶目っ気たっぷりに歌ったり、イスの上に立って片足を上げたり、ジェリーリールイスばりのパフォーマンスで盛り上げます。
きっとどんな場所でもお客を躍らせてハッピーにすることができるでしょう。

斎藤圭土は、正反対です。
演奏は端正で「上手い」けど、グルーヴはゼロ。
うん、これはジャズやブルースのノリじゃなくて、クラシックです。
全部の音がきっちり正確に弾かれていて、強弱のつけかたや和音の響かせかたも、とても滑らかで美しい。
譜面こそ見てないし即興もやってたみたいですが、彼の演奏はぜんぶ譜面に書き起こすことができるでしょう。
パフォーマンスもいっさいなしで、服装も物腰もすごく上品です。
クラシック・ミュージックとしての、観賞用ブギウギ。
こんなのはじめて聞きました。

でもレパートリーは、ビッグ・メイシオやミード・ルクス・ルイスといった戦前ブルースの曲だったりして、それが僕には不思議です。
そうした昔のピアニストの演奏は、クラシックのマナーとは正反対の、ファンキーな演奏が売り物ですからね。
そもそもブギウギって、踊るための音楽だったわけだし。
斎藤圭土ファンがビッグ・メイシオを聴いたら、あまりの違いに驚くんじゃないか。
観賞用ということで、意識してグルーヴや雑味を取り去ってるんだろうか。
聴いてて体が動いちゃったら観賞できないわけだし。
それとも、僕を含めたブルースやルーツ系ミュージシャンと、クラシック出身のミュージシャンでは、耳や頭の仕組みが違うんだろうか。

斎藤圭土の場合がどうなのかはわからないけど、クラシックの世界からポピュラー音楽に来たミュージシャンって、リズムというかグルーヴがどうしても出ない人がいます。
けっこうたくさんいます。
せっかく何年もかけて練習して素晴らしいテクニックを身につけたのに、ノリが出せない。
出したくても出せない。

コントロールする癖がつきすぎてるんですよ、たぶん。
フォルテ(でかい音)という指示が譜面に書いてあれば、いつでも同じフォルテが自動的に再現できるように、体がもうそうなってる。
ミスや破綻がなく、予定外のことは起こらないから、聴いてて安心。
そのかわり、揺れもないからグルーヴは出ない。
ってことなんじゃないかと、ずっと思ってます。
ほら、絶対音感あると、ブルースみたいに音程を揺らす音楽は気持ち悪くて聴いていられない、って言うじゃないですか。
それみたいなことなんじゃないかと。

てなことを考えながら、イケメン・ピアニストに目をキラキラさせた周りの上品なレ・フレール・ファンの妙齢の女性たちの雰囲気に溶け込めず、僕は妙な気分でじっとおとなしくコンサートを聴いていました。

2017年3月21日火曜日

Stumble Bumを聴きに出かけた

Stumble Bumを見にいきました。


新百合ヶ丘Chit Chat。
いいお店なんだけど、ちょっと遠いなーって気がしてしまって足が遠のきがちで、久しぶりに行けてよかったな。

スタンブル・バムは、とってもいいバンドです。
って、実はライブ見るのはじめてだったんだけど、やっぱりとってもよかった。
録音で聴くのとライブで聴くのは、違いますからね。
生で聴く笠原トシさんのベースの質感というかニュアンスが、もう素晴らしすぎて聴きほれてしまいました。
いいベーシストはもちろん他にもたくさんたくさんいるけれど、こんなにあったかい音にはそうは出会えない。
まあね、ひとことで言えば、好みだってことなんですけどね。
いいバンド。
たしかにロックなんだけど、うるさくない。
余計な音がない。
こういうバンドって、いそうでいないと思います。
昨日はドラムじゃなくてカホーンだったから、こんどはライブハウスでやるのも見てみたい。


こんないい音楽が身近で聴けるって、すごく素敵なことです。
と思うんだけど、それでもやっぱり、毎日どこでもってわけじゃあない。
昨日だって、電車に乗って新宿で乗り換えて出かけていくには、ちょっとは気合が必要なわけです。
いい音楽を、いつでもフラッと気軽に聴けに行けるなら、もう本当に何も言うことないんだけどな。

ニューオリンズ時代を思い出します。
あの町では、いい音楽がいつでも身近にありました。
たとえば気分が晴れないとき、とりあえず町に出れば、そこには音楽がある。
ロックでもジャズでもブルースでも、あったかい演奏があふれてる。
いい音楽を聴けば、たいていの悩みは消え去ります。
本当です。
音楽って、奥の方から心をほぐしてくれる。
そういう環境にいるから、あの町の人はみんな優しくて人なつっこくてポジティブなんでしょう。


昨日はチップ制でした。
客席は埋まってて、みんな気持ち良さそうで、チップも入ってたけど、それでも、来てるのはたぶんスタンブル・バムの音楽を好きな人ばかり。
日本ではごくごく当たり前のことです。

これがニューオリンズだと、なんとなく音楽を聴きに夜の町に出てきたごく普通の人たちが、フラッと店に入ってくる。
どんどん入ってきてまた出ていって、次は隣の店に入っていく。
だから、お店のキャパシティ以上のお客さんがチップを入れてくれることになる。
それだから、ミュージシャンも家賃が払えていい音楽がやれて、そうやってあの町は回っている。

ちょっと一杯ひっかけたり、あるいはなんとなくテレビつけたりとか、たぶんそのくらい気軽な気分転換のようにしてライブを見にいくんです。
音楽を聴いて楽になれることを、当たり前に知ってる。
会社勤めの人がマッサージに通うみたいなことなんじゃないかな。
ニューオリンズでは、音楽の聴けるお店の方が、マッサージ屋よりはるかに多いですしね。


ああしかし僕は夢を語ってるんですよ。
日本がアメリカのように、ニューオリンズのようになることは、どう考えてもありえない。
そんな中でも、少し足をのばせばいい音楽に出会えるっていうことに感謝して、これからも出かけるようにしよう。




2017年3月18日土曜日

「日本のラジオ」を観て反省した

日本のラジオ」という劇団の芝居を観に行きました。
面白かった。
でも、後悔したことがあります。

この芝居は、拍手が起きないようなあいまいな終わり方をしていて、最後に(たぶん)主催の人が出てきて挨拶をして、終わったのがわかる、という作りになってる。
で、その人が、よかったらアンケート書いてってください、って言うんです。
で、みんな静かな中で(そういえば、最初から芝居後まで、たしか音楽はいっさい流れなかった気がします)なんとなく書きはじめて、でも僕は面倒だしいいや、って思って、ササッと席を立ったんです。
それで、帰ろうと思って階段を降りてる途中で、さっきまで舞台に出てた役者がみんなこっちにやってきて、すれ違いました。
「ありがとうございました」って言われて、僕もなんとなく会釈とかして。
たぶん主催で脚本ともしかしたら演出とかもしてるだろう、さっき最後に挨拶してた人とも、すれ違いました。
そのまま通り過ぎて、すぐに自転車に乗って帰りました。

帰り道、自転車をこぎながら、後悔しました。
なんでひとこと、「面白かったです」って言えなかったんだろうか。
面白かったのに。
小さな劇場で、けっこう汗水流して、やってるんだと思うんです。
会釈だけして素通りするのと、「面白かったです」って声をかけるのとで、きっとぜんぜん違う。
っていうのは、これから何回か残ってる公演の、力と言ったら大げさかもしれないけど、やっぱり嬉しいだろうし、いいことにつながるかもしれない。
いいもの見せてもらったのに、そんな小さな感謝の行為ができないなんて、情けない。

いいわけは、ありますよ。
だって慣れてないから。
たとえば、音楽の場合は慣れてるわけです。
いい演奏に出会えば、できるだけ声をかけるようにしてるし、ライブ会場の空気の中でなら何の躊躇もありません。
でも、舞台って、なんかね、僕以外みんな役者の知り合いのようにして話してて、声をかけるのが気後れしてしまう。
「よかった」って言われて、どんな状況であっても、嫌な気になる人なんているわけないのに。
わかってるのにな。
わかってたら、やればいい。
やらなきゃ、わかってないのと同じこと。
次から、やろう。
やってる側も真剣なんだから、客だって楽しちゃダメだ。
って反省しながら、自転車をこぎました。



この芝居、面白いですよ。
お話としては、風俗店の人間模様にヤクザも絡んで事件も起こって、でもそのいわば紋切り型の設定の中に、じわりとくる部分が本当に微妙にまじってるという、なかなか絶妙なものです。
テンポがいいから、内容がいいにも関わらず、たぶん誰でも楽しめる。
意識的に排してるんでしょう、大げさな役者の見せ場みたいな部分もあまりなくて、スラーっと話が進んでいきます。
いい意味でエンタメものを見てるくらいの感覚で、80分がすぐです。
あんまりテンポよすぎて、小劇場関係に多そうな「芸術」好みの人には好かれないんじゃないか、なんて心配になるほどです。
僕自身、見てる間や見終わってすぐは、そんなにものすごく面白かった!って思わなかったんだけど、あとから考えてみると実は面白かった、という、不思議な感想を持ちました。

あと個人的にすごくよかったのが、いわゆる小劇場っぽさがないところ。
小劇場独特の、内輪ノリのつまんないお約束ギャグや、不要なシモネタや、変な馬鹿騒ぎみたいなシーンが、ない。
たとえ素晴らしい内容の舞台でも、そういう独特のノリがある場合ってけっこう多くて、僕はそれが大嫌いなんですよね。
『ラクエンノミチ』は、わりとこのまま映画やそれこそテレビドラマにしても、面白いんじゃないかな。

いままで見た舞台でも感動するものはあったけど、分かりづらかったり、さっき言った小劇場ノリがあったりで、誰にでもすすめる、ってことはありませんでした。
でもこれは、おすすめします。
阿佐ヶ谷近辺の人は、もし時間があれば、ぜひ見に行ってみてほしいです。
こういうものが近くで気軽に見れる環境って、恵まれてますよ。
その環境も含めて、これに2800円払うって、価値あることだと思います。

月曜まで、阿佐ヶ谷シアターシャインでやってます。

2017年3月14日火曜日

あいつは音楽的すぎる

すごくうまいミュージシャンがいます。
指が早く動くとかいうテクニック面だけじゃなくて、音楽的にも素晴らしい、本当の意味でいいミュージシャンです。
いつ聴いても音楽的な演奏で、どこを切ってもグルーヴィで、申し分ない。
ほれます。

でも、一線を越えることができない。
全部の音が「音楽的」すぎて、そこから外れた音が出せない。
ぜんぶがグルーヴィにまとまってしまう。
それは素晴らしいことで、聴いていてとても気持ちいいんだけど、でも、物足りない。
涙は出ない。


1音だけで、心が震えることがあります。
その1音に、どれだけの気持ちというか気合いというか命というか、いったい何が込められているか、ということ。
極論すれば、歌でもなんでもないただの叫び声だって、それが本当に心の底から出たものなら、人を動かすことができる。

それは、「音楽的」なこととは対極にあります。
うまくて優秀なミュージシャンの中には、「音楽的」に演奏することが体に染み込みすぎてしまって、どうやっても「音楽」にしかならなくて、その先にいけない人がいる。
なんてもったいないんだろう。

性格的な問題もあるから、やっかいです。
震える音を出すためには、自分を捨てる覚悟が必要です。
なりふりかまわずに、ぜんぶ投げ出してぜんぶ見せて、自己評価や他人の目や、つまり人にどう思われるかなんて1mmでも頭にあったらやれない。
それは、音楽だけじゃなくて、人前に立って何かを表現するものすべてに共通することです。


僕がいたニューオリンズは、日本のような自分を殺す文化とは対極にある街です。
みんな当たり前に自分を解放できるから、こんなつまらない問題はありません。
楽器の上手い下手に関わらず、一線を超えた感動的な音に、たくさん出会える。
それが、僕にとってニューオリンズ音楽が特別に素晴らしく思える理由のひとつです。

自分をおとしめるよう強要される国に生まれて自分を好きじゃないまま生きていて、それで音楽をやっても自分を解放できないんじゃ、自分が変われないんじゃ、もうどうすればいいのか。
それで心から楽しいんだろうか。


日本で音楽学校出た若いジャズ系ミュージシャンみたいな中身ゼロの指だけよく動く音楽人形についてはまったくなにも思わないし無視するだけだけど、本当にいいミュージシャンで一線を超えられない人に出会うと、すごく残念で悲しくなります。


2017年3月11日土曜日

ペーソスに加入しました!

"哀愁おやぢの平成歌謡" ペーソスに加入しました!
2年前にはじめて見て衝撃を受けて以来のペーソスファンとして、こんな光栄なことはありません。

ペーソスは、とにかくサイコーなんですよ!
人生の酸いも甘いも噛みすぎて苦味渋味に甘味まで加わってしまったような、ああもう言葉では説明できないけど、心に沁みまくる楽曲とメンバーのたたずまい。
音楽って、テクニックとかグルーヴといういわば「技術面」と、ハート、つまり「感情面」の2面があって、「技術面」が優れたバンドはいくらでもいるんです。
でも、「感情面」の方が突出するケースは、多くありません。
ペーソスは、その「感情面」のみが凝縮されたような、その結果どんな人の心にも触れることのできる、稀有なバンドです。

曲を書くのは、ボーカルの島本慶。
俗名、なめだるま親方。
アラーキーとも親交の深い、出版業界の曲者です。
血糖値や尿漏れ、徘徊老人や飲み屋の歌など、さいわい僕にはまだ縁のないテーマばっかりなんですが、どれもこれもグッとくるんですよね〜。

当面は、ぜんぶのライブに参加するわけではありません。
もうひとり、最強のサックス奏者、末井昭とのローテーション制になります。
末井さんの経歴もまたすごい。
元白夜書房取締役。
『パチンコ必勝ガイド』『写真時代』を世に送り出した人物。
2014年には『自殺』で講談社エッセイ賞を取ってます。
著書にも書いてあるけど、まあ激動の、それこそ映画になりそうな人生。
そして、普通の人間には吹けない音を出す。
一度は聞いてほしいサックス奏者です。
特にミュージシャンには。

ここにさらに、スマイリー井原の飄々とした司会と、古賀政男スタイルを彷彿とさせる米内山尚人の流麗なギターが加わります。
いいバンドです。

いいバンドに出会うと、一緒に音を出してみたいなー、と思うものです。
でも、ペーソスについては全然そう思いませんでした。
だって、全員のキャラというかもう人間性のようなものの掛け算で、ひとつの世界ができあがっているから。
飛び入りで演奏したことはあるけど、メンバーになるなんてとんでもない。

それが、どういうわけか、このたびペーソスの一員となりました。
とてつもなくチャレンジングなことです。
だって、どれだけ音楽的に「いい演奏」をしたところで、バンドが良くなるとは限らないから。
ペーソスという唯一無二の世界に、どうしたら貢献できるか。
冗談ではなく、いままでのバンド経験の中で、いちばん難しい。
でも、やれると思うし、それがやれるミュージシャンはそうはいない。
知っている管楽器奏者の中では、きっと僕しかこんなことやれない。
という自負もあります。

いつものように、まずは形から。
ペーソス用にメガネを新調しております。
そして、ループタイも。

さらにいいバンドになったね、と言われるように、精進します。
ペーソスはホントにサイコーなんで、僕が出ても出なくてもぜひ一度見にきてください!

2017年3月9日木曜日

旧友に会った

十数年ぶりに、旧友と会いました。
冨永昌敬。
映画監督です。
コンスタントに作品が公開されているので、ああやってるな、という感じで名前は目にしてたけど、特に用事もなくきっかけもなく、連絡をとることはありませんでした。
それが、ひょんなことで突然また繋がったんです。
ビックリして嬉しくて、飲まずにはいられませんでした。

ハタチごろからの数年間、僕が音楽からはなれていた時期に、一緒だった友達です。
当時はとにかく映画が好きで、映画を見まくって、映画業界の人と一緒に自分でもカメラを回していました。
といっても、映画を撮るんじゃなくて、パフォーマンスや舞台を撮影してたんですけどね。
学校を辞めて実家を出て、何の経験もないままに知らない世界に飛び込んで、とんがった若者やうさんくさいおじさんたちが周りにたくさんいて、変な場所に出入りして、いま思い返してみても、すごく濃密な数年間でした。

冨永は日大の映画学生でした。
映画や、音楽について、たくさん語り合いました。
ミンガスの話。自伝がヤバイこと。
ベルトリッチの話。「暗殺の森」のこと。
ライ・クーダーの話もして、僕はそんな頃からニューオリンズに行きたい、って言ってたらしい。
冨永が教えてくれた今村昌平の映画、いまだに見てないんだよなー。

ふたりとも、若くて斜に構えていた。
くだらないことも含めて、むやみに熱くなってて、大学にいっていない僕にとっては、あのころが青春だったんですよね。
同世代との付き合いが少なかったので、同い年の冨永は、数少ない青春時代の友達です。

そんなだから、会えて嬉しくて。
これだけ時間があいていても、やっぱり昔のようで、話がつきない。
僕は古い出来事をぜんぜん覚えてないので、冨永から聞く若いころの自分の姿が新鮮です。
そして、話してるうちにいろんなことを思い出してきます。
プランBに山谷のドキュメンタリーを見に行ったこと。
梅津和時を聴きにジャンジャンに行ったこと。
ドリーム・コーヒーって喫茶店のこと。
おもしろいこと、いっぱいやってたんだな。

ああ楽しい。
いまの俺たちもおもしろいなー。
こいつ、変わってないなー。
いや、きっと変わってる部分もたくさんあるんだろうけど、変わってないように思えてしかたない。
それはきっと、僕は冨永の奥のほうの、根っこの、核みたいな部分が好きだから。
昔だって、学校やなにか同じ団体にふたりが所属してたわけじゃない。
一緒になにかを作ったり作業をしていたのでもない。
用事もなく、会いたいから会ってたわけだから。
そういう関係は、貴重なものです。

あらためて考えてみると、あの頃まわりにいた人たちで、いまも何かを続けてるのは、ごく少数です。
みんなやめていった。
どこかへいってしまった。
冨永と再会できたのは、ふたりとも続けていたからです。

こんなに嬉しい出来事は、そうはない。
会えてよかった。
続けていてよかった。