2017年7月17日月曜日

N.O.生活26 - ニューオリンズ・ジャズ in トロント

大学最後の冬休み、友達を訪ねて、カナダに行きました。

トロント在住のトランペット奏者、パトリック。

若いベーシスト、タイラー。

同じく若い、トロンボーン奏者のリンジー。
 
出会いは、ニューオリンズで春に開かれるフレンチクォーター・フェスティバルでした。
有名なジャズ&ヘイテイジ・フェスティバルと違って無料で、しかも、町の中心部で、広場や通りにステージを組んで、出演はほぼ地元のミュージシャンのみ。
世界中からニューオリンズ音楽ファンが集まって、ミュージシャン同士の交流も盛んです。

彼らは、伝統的なニューオリンズ・ジャズに魅了され、毎年カナダからやって来ているといいます。
渡米後、誰ともニューオリンズ・ジャズへの想いを共有できずにいた僕はうれしくて、宿を訪ね、音楽を聞き、語り、音を出して、フェスティバル期間中ずっと一緒に過ごしました。
そして、カナダに遊びに行く約束をして別れたんです。


トロントでは、パトリックの家に泊まりました。
パトリックは「Happy Pals」というニューオリンズ・ジャズのバンドを率いています。
Grossman's Tavernという、日本でいえば広めのカフェ・レストランのような店で毎週末、なんと40年以上もライブを続けているんです。


そして、そこでライブを見たタイラーやリンジーのような若者たちが演奏に加わっていき、小さいけれど強固なニューオリンズジャズのコミュニティが出来上がっています。

おどろきました。
日本でも、そしてニューオリンズでも、若いミュージシャンは古い泥臭いスタイルに興味がありません。
みんなもっと「ジャズ」寄りの、ソロやアドリブを重視した、洗練された音楽をやりたがる。
それが、ここトロントでは、パンク・バンドに魅了されるような感覚で、若者がニューオリンズ・ジャズのバンドに熱狂している。
そもそも、パトリックの世代のメンバーも、ニューオリンズに行ったときにKid Thomasの演奏に衝撃を受け、バンドをはじめたそうです。
そして、それを見た若者がまた衝撃を受けて楽器を手にする。
そんな幸福な連鎖が起こっているなんて、奇跡のようです。


Happy Palsは、まさに往年のプリザベーション・ホール・ジャズ・バンドのような、ゴツゴツした手触りのバンドです。
僕は一度体験しただけですが、週末のライブはいつも盛り上がるといいます。
それも、お客のほとんどは、マニアックな音楽ファンなどではなく、町の普通の人々。
老若男女がつどって、酒を飲みながら音楽を楽しみながらダンスをしながら、毎週末を過ごしているんです。

ニューオリンズ・ジャズは、人々のための音楽、躍らせるための音楽だ、と言いますが、それは昔のこと。
今ではニューオリンズジャズも洗練され、鑑賞にも適した音楽になっています。
もちろん、いまの若手が好む新しいスタイルのジャズでも、踊ろうと思えば踊れます。
が、踊る気で集まったのではない、そこに居合わせた人々までが自然と体を揺らすような強烈な吸引力は、もはやありません。
古いスタイルのニューオリンズ・ジャズには、それがある。
だって、鑑賞するためではない、ビートの音楽だから。
以前、マイケル・ホワイトが海外のジャズ・フェスティバルに出た時の話が印象的でした。
バンドのベーシストがいわゆる「ジャズ」のリズム感で演奏していたのを、マイケルが古いスタイルのリズム感を示して、音数を減らしダウンビートだけ弾くように直させたとたんに、それまでじっと聴いていた観衆が踊りだした、と言うんです。
たぶんそういうことが、Happy Palsのライブでは起こっている。
ニューオリンズ・ジャズのビートの力を目の当たりにして、感動しました。


滞在中、Happy Palsのライブ以外にも、ダンスの集まりや小さなパーティでパトリックと演奏しました。
彼のトランペットのスタイルは、まったくブレない。
いわゆる営業仕事のような場面でも、キッド・トーマス直系のシンプルでラフな吹き方で通します。
そして、お客もみんなそれを歓迎するんですよ。
だってキャッチーだし、盛り上がる。
欧米のお客って、「ジャズ」「ボサノバ」みたいなステレオタイプを期待することがなくって、いいと思えば素直に反応しますからね。
この音楽は、けっして日本で思われてるような地味でマニアックな老人向けのものではないことを、実感しました。
先入観なく耳を向けるなら、モダンジャズよりもはるかに多くの人に受け入れられるはずです。


パトリックはそのことに自覚的です。
ニューオリンズのスタイルを、もっとポピュラーにしていきたい、と熱く語ります。
トラディショナル・ナンバーだけではなく、トム・ウェイツやジョニー・キャッシュの曲もレパートリーに加えています。
昔だってキッド・トーマスは、エルヴィスやファッツ・ドミノの曲をやってたわけですからね。 
ライブは、お客を楽しませることをよく考えていて、マニアックな音楽にありがちな発表会のような雰囲気とは対極です。
誰もが気軽に音楽を楽しめる、ハッピーな空気にあふれています。
こんなにニューオリンズジャズが日常に浸透してる町は、世界中でも他にないでしょう。


しかし、とにかく寒かった!
なんたって真冬でしたからね。
気温はもちろんマイナスで、常に吹雪いている。
だからなのか、町中に地下道が整備されていて、外に出なくても移動できるようになってるんですよ。
僕は町並みを見たくてがんばって地上を歩きましたが、30分もすると凍えてしまう。
暖を取ろうと店に入っても、あんまり暖かくないんですよね。
みんな店内でもコート着たままだし。
そういえば、パトリックの家も寒かった。
きっと寒さに慣れてるんでしょうね。

若いタイラーとリンジーとは気が合い、町を飲み歩きました。
タイラーはもともとロカビリーをやっていたので、そっち方面の友達も多く、面白かったです。日本のラスティックをやってるような若者に近い感じがしました。
ふたりとも視野が広く、音楽にも人間にもオープンで、ニューオリンズ・ジャズへの情熱にあふれている。
とても刺激になりました。
一緒に録音をしよう、という予定もあったのが、スタジオの段取りがつかず実現しなかったのが残念です。


トロントに住みたいと思うくらい、町のニューオリンズ・ジャズ・シーンは最高です。
この音楽の素晴らしさを、あらためて思い知った旅でした。



カナダのテレビ曲が制作したHappy PalsのドキュメンタリーがYoutubeにアップされています。

番組の中で、メンバー全員が口をそろえて言うのが、若い頃にHappy Palsのライブ、あるいは50〜60年代以前のニューオリンズ・ジャズの録音を聞いて衝撃を受けて人生が変わった、ということです。
中でも31:10からのパトリックのシーンは感動的です。
友達が「(トランペットプレイヤーなら)キッド・トーマスを聴かなきゃダメだ」って言うから、レコードを手に入れて聴いてみたんだ。でも、ピンと来ないどころか、なんて変なプレイだ、って思ったね。そう、とにかく変だったんだよ。これを好きなヤツもいるんだろうけど、俺には受け入れられなかった。
で、それから何年かしてニューオリンズに行ったんだ。プリザベーション・ホールの床に座ったら、目の前にキッド・トーマスがいた。 〜 彼が "Moonlight Bay" を吹きはじめた瞬間、人生が変わったんだ。 〜 何をやりたいのか解った。俺はこの音楽を演奏するんだ、って。
 続く32:04からの "Moonlight Bay" の演奏が素晴らしい!そこだけでも見てみてください!

これってたとえば、ジャニスを聞いて歌を、ジミヘンを聞いてギターをはじめた、というようなことですよ。
ニューオリンズ・ジャズには、それだけの魅力があります。
だからこそ、音楽に詳しくなくても、ただ楽しくて、毎週みんな集まってくるんですよね。
素晴らしいドキュメンタリーなので、英語が少しでもできてニューオリンズ・ジャズに興味があるなら、ぜひオススメします。



2017年7月14日金曜日

ボブ・ホスキンスに会いたくて『モナリザ』を観る

どんな映画が好きか聞かれると、ミニシアター系、フランス・ヨーロッパ映画、なんて答えます。
好きなジャンルっていうと困る。
ギャングものは好きだけど、もそもそも数も多くないし。
アクションやホラーは見ないかな。
まあ、あまり内容で選ぶことはしません。

それでもひとつだけ、とっても弱いジャンルというかお話があります。
それは、男の哀愁もの。
イメージでいうと、クリント・イーストウッドかなー。
でもちょっと男っぽすぎる。
ショーン・ペンの方がいいな。
あと若い頃のキース・キャラダイン。
不器用で孤独な男の、報われない恋の話なんかが、たまりません。
一歩間違えばストーカー、秘めた純愛なのか妄想なのか、みたいな。

典型的な作品は、パトリス・ルコントの『仕立て屋の恋』。
モテない孤独な中年男がミステリアスな美女に惚れてだまされて、それでも愛だと信じて自分を犠牲にする話。
こうやって要約しちゃうと、すごく安っぽく聞こえちゃうな。
でもとにかくそういうのに弱いんです。
ルコントでは、『タンデム』も男の哀愁がプンプンして、いいですね。
作品としては『タンゴ』がいちばん好きだけど。


そんな男の哀愁映画の中でもお気に入りの一本が、『モナリザ』です。
『クライング・ゲーム』『インタビュー・ウィズ・バンパイヤ』で有名なニール・ジョーダン監督が、ハリウッドに進出する前に撮った佳作。
この頃の作品は、地味でいい。

冴えない中年チンピラの報われない恋の話。
7年のムショ暮らしで時代の流れから取り残され、なんとかボスにあてがわれたのは、高級黒人娼婦シモーヌの運転手。
イヤイヤ送り迎えにするうちに惹かれていくけれど、彼女には過去があり、見てる世界が違っていた。
「出会ったときから、彼女はワナにかかっていた。惚れていた男は気づかなかった。そこにはたしかに愛があった。しかし、彼女が愛していたのは、彼ではなかった。」
そんな話。

とにかく!
主演のボブ・ホスキンスが素晴らしい!
ハゲ頭にチビでずんぐりとした体型が、もう哀愁を誘います。
単細胞キャラ。
よく言えばピュア、悪く言えばバカ。
こんなに純粋で不器用な姿を見せられたら、涙せずにはいられない。
画面の外に去って行くシモーヌを見つめるときの、視線。
嫌っていた相手にしだいに惹かれていく心理を、余計な説明なしに、表情や仕草だけで見せてくれる。
過剰な部分の一切ない、名演。
彼を見るだけでも、この映画は価値がある。
好きな演技ベスト3に入ります。
ちなみにあとの2つは、『蜘蛛女のキス』のウイリアム・ハートと、『レイジング・ブル』のデ・ニーロです。
  
でもまたね、他の役者もみんないいんですよ。
ミステリアスな娼婦役のキャシー・タイソンがハマってる。
この作品でデビューしてかなり話題をさらったそうですが、その後はテレビでの活躍が多く、観る機会がなく残念です。
そして、ボブ・ホスキンスの子分というか親友役の、ロビー・コルトレーン。
イギリス労働者階級の素朴さ。
ふたりの関係が、これまた素敵です。
落ちぶれた兄貴分を、あたたかく受け入れる。
彼がボブ・ホスキンスに言う「あんたは俺のヒーローだったのに」っていうセリフに、グッときます。

そして、組織のボスを演じるマイケル・ケインが相変わらずいい仕事をしている。
そもそも僕は、マイケル・ケインのファンだからこの映画を観たんですよね。
今でこそ演技派としてメジャー映画にも出てるけど、僕が『ハンナとその姉妹』で彼を知った20年くらい前は、日本ではまだ知名度が低く、見れる作品があまりなかった。
『殺しのドレス』『デス・トラップ』『アルフィー』『ペテン師とサギ師』くらいでしょうか。
この映画でも、出番は少ないけど、さすがの演技です。

悲劇的なクライマックスのあと、終わり方があっさりしているのも、いい。
それが、エンドロールに流れるナット・キング・コールの「モナリザ」を引き立てます。
"モナリザよ、その微笑みは誘惑なのか、それともたくさんの夢に破れ傷ついた心を隠してるのか。"
という歌詞が、映画をしめくくる。
歌から作られた映画なんじゃないか、ってくらいに合ってる。
もう、どこかでこの曲を耳にするたびに、ボブ・ホスキンスの姿を思い出してせつなくなります。


人物を見せる映画が好きなんです。
凝ったストーリーなんて、一度見ればそれでおしまい。
でも、人間はそうじゃない。
何回でも、その人に会いたい、っていう気持ちにさせてくれるんです。
これからも、ボブ・ホスキンスに会いたくなって、この映画を見ることでしょう。

ちなみにこの映画、元ビートルズのジョージ・ハリソン主催の「ハンドメイド・フィルム」製作です。
それもなんとなく嬉しいです。

2017年7月11日火曜日

音色を磨く

音色って不思議なものです。
譜面にも書きつけられないし、どうすればその音色になるのか、分からない。
たしかに、楽器やパーツの選択でも音色は変わります。
録音した音を機械にかけて、倍音やら色々な音成分を数値化することも、可能なのかもしれない。
それでも、こうすればこの音色が出る、っていう風にマニュアル化することは、できない。
だって、同じ楽器でも演奏者によって音色が違うんだから。
ピアノが、いい例です。
演奏者の体型や骨格も、きっと影響しているんですよ。
微妙な指の動きや、もしかしたら肌の具合や血液の濃度さえ関係しているかもしれない。
そのくらい、ミステリアスなものです。

あなたの声が好き、って、言う。
低い声が好き、高い声が好き、とかはあっても、その中でどうして「あなた」の声だけが特別なのか。
きっとそれは、声質だけではなくって、話すうちの表情や仕草やいろいろが一緒くたになって、その人の中身が透けて感じられるようなことだと、思います。
たとえ全くおんなじ声の人がいても、その全員が「あなた」になれるわけじゃない。

楽器の音色も、そういうものです。
実は、音だけで形作られるものではない。
無意識のうちの強弱や間の取り方や、いろんな要素が一緒くたになって出来ている。
それは身体と直結した、たぶんクセや性格のようなものまで関係した、とってもパーソナルなもの。
演奏には人柄が出る、って言うけれど、それがいちばん顕著なのが音色であって、演奏者自身のいろんなことが詰まっているんだと思うんです。

だから、音色がいいねって言われるのは、あなたのことが好きっていう、おおげさにいえば自分が全肯定されるようなこと。
上手いねとかフレーズがいいねとか、具体的なことをほめられるのとは、違う。
いや、好かれなくてもいいんですよ。
「あなたの音色」と認識してもらえたら、それだけで嬉しい。
少なくとも、自分の中のいろんなものが、ちゃんと音色に出てるということだから。
ただの音符の組み合わせとは違う。
演奏することで、自分自身を表現することができている。

そんな風に考えて、音色を磨いています。

2017年7月8日土曜日

『ザ・レジデンツ・ムービー / Theory of Obscurity』


レジデンツのドキュメンタリー映画を見てきました。

1970年代から活動する、アメリカの前衛ポップバンド。
目玉とシルクハットのかぶりもので顔を隠し、匿名のままで40年以上も活動している。
ポップさと実験性と批評精神が絶妙のバランスで同居する、偉大な4人組です。
でも、意外に日本では知られていない。
まわりのミュージシャンに話してみても、ほとんど誰も知らない。
まあバンドではあるけれども、アートやサブカルチャー界隈での方が有名なんでしょう。
実際、映画を見て知ったんだけど、全作品がニューヨーク近代美術館に収蔵されているそうです。
しかもこんな感じで、冷蔵庫の中に。


僕も正直、ものすごい大ファンというわけではありません。
初期〜中期の作品は聞いてるけど、ぜんぶ好きなわけじゃないし、そもそも日常的に聞くような内容でもないし、あんまり聞きこんでるとはいえない。
よく聞いていたのは、20代の頃です。
国内盤のアルバム解説を読みながら、音楽だけじゃなくて、そのセンスというか活動全般を、かっこいいなと思っていました。
でも、あんまり資料がなかったんですよ。
当時はまだネットも普及してなくて、レジデンツを知ってる友達もあまりいなかった。
少なくとも、音楽友達にはいなくて、僕はひとりでオタク的に買い集めて追求するタイプじゃないので、なんとなく宙ぶらりのまま、気になるバンドのひとつとしてずっとありました。


映画は、レジデンツの歴史をまとめた、わかりやすい内容でした。
やはり、音楽よりも、アートとしての側面が強いバンドなんですね。
ライブも、かなり演劇的な要素が強いみたい。
世界中に熱狂的ファンがいるけれども、それでも経済的に難しかった時期もあるようです。
本人たちは作ることしか興味がなく「売る」考えがなかった、とか、どこまで本当なのか。

デビューアルバムに参加した鍵盤奏者が、はじめて一緒に録音したときのこと。
その場で曲を作り、コードをつけようとしたら、普通のコードを弾くと嫌がられ、オリジナルのコードを考えろ、みたいなことを強く言われたそうです。
うーん、考えさせられます。
レジデンツの初期のアルバムは、楽器の選択からして、普通じゃありません。
というか、どうやって作られたのか知らないけれど、そもそも楽器を弾いて曲を演奏する、というやり方では、たぶんない。

映画の中で何人もがレジデンツに影響受けた、と語る中で、楽器が上手くなくても音楽をやっていいんだと教えてくれた、と言います。
たしかにレジデンツの音楽は、バンド・グルーヴといったこととは無縁。
だから、ミュージシャンには受けないんでしょう。
それよりも、子供がものを叩いて喜ぶような自由さ、音楽の根源的な楽しさのようなものを、思い出させてくれる。
初期衝動、とかね。
パンクの元祖、なんて言う人もいる。

僕がレジデンツに惹かれるのも、音楽以外の部分が大きい。
ブレない独自の価値観と活動姿勢。
なんといっても、ビジュアルが素晴らしい。
目玉のかぶりものは、実はビジュアルイメージの必要性から考えられたもので、本人たちは最初は気に入っていなかったそうですが。
音楽だけではなく、いろんな要素を総動員して、レジデンツという世界をトータルで作り上げている。
匿名での活動、ということも含めて、こんな風に続いているバンドは、他にいません。


僕も音楽をやっていて、もちろん楽器を演奏するんだけれど、それだけじゃなくてビジュアルやらステージングやら名前やら世界観やら、いろんなことに興味がある。
演奏のことだけ考えてるのは、好きじゃない。
それはもしかしたら、若い頃にレジデンツに出会って影響を受けた部分もあるのかもしれません。
あとボンゾ・ドッグ・バンドとか。


それにしても、音楽ドキュメンタリーって、どうして作り手のエゴ丸出しの、まったく意味のないダサい演出があるのか。
インタビューの映像にエフェクトかけてみたり、ライブ映像だって、かっこいいアングルで撮ってばっかりで全体が映らないから、どんなステージなのかちっとも分からない。
被写体を掘り下げてどう見せるか、っていう考えが、ないんだろうな。
音楽ドキュメンタリー撮る人で、いい監督って、いないんだろうか。
映画も好きな身としては、いつも不満です。
そして、邦題の『めだまろん』って、どうなんだろう。

とはいえ、レジデンツはとにかく魅力的で、劇中で紹介されるPV的な映像作品もどれも最高なので、楽しめる映画だと思います。
青山のイメージ・フォーラムで上映中です。


映画のHP。
めだまろん/ザ・レジデンツ・ムービー
予告編が見れます。


ダンス天国のカバーぽい曲
(曲は43秒から。後半3分すぎからの映像がかっこいい。)

ジェームズ・ブラウンのカバー
(2:30くらいからメンバーが登場します)



2017年7月3日月曜日

あがた森魚&はちみつぱいを見にいった

あがた森魚&はちみつぱいのライブを見に、芝公園のメルパルクホールへ行きました。
歴史のありそうな、立派な建物です。
クラシックのコンサートホールのようで、1500人くらい入るそうです。
ホールでゆったり座ってライブを見るなんて、久しぶりです。
後方の席でしたが見やすく、日本のロックを作ったといえる総勢10人のミュージシャンたちによる、スペシャルなライブを堪能しました。

熱い演奏でした。
途中、はちみつぱいだけの演奏と、あがた森魚のピアノ弾き語りをはさみ、ダブル・アンコール含め2時間半、ノンストップ。
MCも少なく、ほぼ演奏だけでこの長さ。
新曲も多くて、いわゆるリユニオン・ライブにありがちな懐メロ感やお祭り感はなく、気合を感じるステージでした。

ただ残念なことに、音響が悪かった。
全体的に音がモヤモヤして、演奏のディテールがよくわからない。 
バンドは9人の大所帯です。
曲によって楽器の持ち替えもあり、ギター1~3、ドラム ×2 、ベース、ピアノ、アコーディオン、バイオリン、トランペット、とたくさんの楽器の音が混ざりあって、混沌としていました。
さらに最悪なことに、ボーカルが埋もれてしまっている。
バンドの方が音が大きい場面も多く、全体的に歌詞が聞き取れない。
もったいないなー。

と思いながら聞いていて半分くらい経ったところで、はちみつぱいが長尺プログレ演奏をしてステージを去り、あがたさんが一人でピアノの前に出てきて、マイクをにぎりました。
それまでは、ほぼ曲のタイトル紹介だけだったのが、ここで、客席に向かって語りかける。
なんて真剣なんだろう。
ここまでの熱量を持ってステージから話す人を、他に知りません。
その真摯さに、感動します。

そこからの演奏も、素晴らしかった。
コードをポロンポロンと鳴らして語りはじめ、「冬のサナトリウム」、断片的なフレーズのリフレイン。
途中で何度も、むせび泣くような、リミッターが外れてどこまでも駆け上るような瞬間がやってきます。
ああ素晴らしい。
やはり音環境は悪くて、弾き語りなのに歌詞がよく聞き取れない。
それでも、あがたさんが歌にこめる感情は、しっかりと届いてくる。
ここまでむき出しで歌う人は、そうはいない。
あの魔法のような声に、ありったけの気もちをこめて。

またはちみつぱいが加わり、ラストまで。
音は混沌としたまま、歌詞や曲全体は不明瞭でも、ときたまその中から、あがたさんの感情が立ちのぼってくる。
「星のふる郷」「骨」「赤色エレジー」。
ダブル・アンコールの後、10人のミュージシャンがステージに横一列で並びます。
あがた森魚とはちみつぱいが『乙女の儚夢』をレコーディングしてデビューしたのが45年前。
僕の人生より長いあいだ、この人たちは音楽をやってきたのか。
すごいな。


音がよくなかった、ってさんざん書いたけれど、いいライブに間違いありませんでした。
あがたさんは、いつも本気です。
嘘がない。
たとえギターの演奏が怪しい瞬間があっても、つくろわない。
どうやって全部を出し切れるか。
どこまで登りつめられるか。
きっと、そんなことを考えてやっている。
音を外すことすら恐れずに、上手く演奏しようなんて、思ってもいないんじゃないか。

まっすぐな表現は、伝わるものです。
それを、あがたさんはいつも教えてくれる。
自分もこれからもずっと、そんな風にやりたい。
あらためて、そう思わせてくれたライブでした。
行って良かった。

2017年6月26日月曜日

テレビなんて見てたらおしまいだ

昨日のライブで、怪我をしました。
ある曲で、スプーンを叩いたんですよ。
二本のスプーンを片手に持って、足や手に打ちつけてカチカチ音を出します。
横で大石みつのんさんが弾き語りでワーっと盛り上げるのに刺激されて、滅茶苦茶に叩きまくりました。
普通の叩き方じゃなくて、立ち上がってもう滅茶苦茶に。
おかげで盛り上がったけど、興奮して身体も叩いてしまったようで、演奏が終わったら手やら色んなところが痛い。
しばらくしてトイレで鏡を見ると、唇の端が赤黒く腫れている。
どうやら勢いで口を叩いてしまい、血豆になっています。

痛くはないんだけど、かなり目立ちます。
あさって写真撮影があるので、これはマズイ、と思って、朝イチで病院にいきました。
そして、薬が処方されるのを待つあいだ、テレビを眺めていたんです。


小林麻央という人が死んだそうです。
僕は普段テレビを見ないので、この人のことを全く知りませんでした。
名前は聞いたことある気がするし、どこかでテレビに映ってるのやら写真やらネットやらで目にしたことはあるかもしれないけれど、それを小林麻央、と認識したことはないので、知らない人と言っていいでしょう。
いろんな人のお悔やみのコメントが、映しだされます。
スタジオで、芸能人が集まって、コメントを言い合います。
夫の市川海老蔵の泣き顔が映ります。
たぶん5分くらい、それらを見ていて、ああテレビってなんて醜悪なんだろう、と怒りに似た感情がわいてきました。
ほぼすべてのコメントが、どこかで聞いたお決まりのフレーズです。
例えば、お悔やみ申し上げます、ってさ、いわゆる「公式コメント」みたいな、いちばん当たり障りのない言葉であって、好きな人の悲しみに本気で共感するときには、絶対に使わない。
まあね、芸能人なら、「公式コメント」を出さなくてはいけないんでしょう。
そして、コメントが紹介されてるのは故人に近い人たちだから、みんな悲しいんでしょう。
でもそれらがズラーっと次々に画面で紹介されると、その言葉にこめられていた悲しみが薄まってしまう。

あの、テロップ!
なんで、発言をぜんぶ文字で表示してしまうのか。
声や表情の中のたくさんの複雑なニュアンスが、あの無味乾燥な文字列のせいで漂白されて、誰の心もザワつかせることのない、人畜無害なただの「情報」に変えられてしまう。
さらに、大げさに神妙なナレーションが、みなさん神妙にしなくてはいけません、と圧力をかけてくる。
人が死んだら、それが誰であっても、一律に定められた「神妙」なリアクションを取らなくてはいけない。
普通に話したり笑ったり怒ったり、「神妙」から外れることは悪だ。
機械のように、一律同じ反応をしなくてはいけない。

そして、故人は清く美しい人で正しく努力して生きた最高に素晴らしい尊敬すべき人物だった、という、チープな物語が捏造される。
それを見た視聴者は、あんないい人が34才の若さで幼い子供を残して死んでしまってかわいそう、と言う。
キャッチーなエピソードだけあつめて作られた、「いいひと」。
それはもう「小林麻央」じゃない。
ステレオタイプの「いいひと」の定型キャラクターにすぎない。
小林麻央さんを人間扱いしていない。


だれか女性芸能人が、「天使みたいな人だった」とコメントしてました。
それが正直な声であるなら、「天使」っていう言葉は、故人を愛していた、っていう意味で使ってるはず。
それがテロップになって機械的に紹介されることで、「小林麻央=天使」という、ただのくだらない情報になってしまう。
その人は、そんなことを言いたかったはずじゃないのに。

そもそも、誰もに愛される、欠点のない、天使のような人間なんて、いるわけない。
どんな人にだって、良いところも悪いところもある。
その、いわば欠点も含めて受け入れるのが、愛するということです。
「いいひと」だから好き、っていうなら、「いいひと」にふさわしくない行動をしたら、もう好きじゃなくなるの?
彼女は永遠に「いいひと」でいなくてはならないの?

テレビ慣れしてない僕としては、そんなやり方が、すごく暴力的に思えてしまいます。
人間に対する冒涜です。
視聴率のための、いわば金儲けのための茶番に、おそらく素敵な人物だったであろう女性の死を、利用するなんて、まともな人間の所業ではない。
この番組作ってる人たちって、人を愛したことないんだろうな。
と、しか思えない。


テレビを見るとバカになる、なんて言うけれど、それどころじゃない。
あんなの見てたら人間終わると思います。
僕はテレビは見ません。
人間として誇りを持って生きたいから。

2017年6月25日日曜日

ミュージシャンになりたいと思ったことはない

昨日は下北沢ラカーニャでペーソスのライブ。
いいステージでした。
バンドに参加してから、半年以上経ちました。
そういえば、初参加の会場もラカーニャでした。

とっても変わったバンドなので、最初はどうすればいいか悩みました。
メンバー、そしてファンの人たちからもあたたかく見守ってもらいながら、試行錯誤し、サックス末井さんとのバランスも、だんだん落ち着いてきた実感があります。
昨日は、いろんな人に好評で、ようやくペーソスの中での立ち位置に確信が持てるような気がしています。


ペーソスの何が変わってるかって、いわゆる「いい演奏」が必ずしもバンド全体として効果的とは限らないことです。
曲によっては、パーカッション、というより音の出る小物、という感覚で、いろんな楽器を導入してきました。
たまには、踊りました。
そうして気がつくと、クラリネット以外の比重が増え、昨日のライブでは半分くらいの曲ではクラ吹いてませんでした。
※座ってスプーンを叩いています

あらためて、自分はミュージシャン志向じゃないんだな、と思います。
アレンジャー、って言うと音楽的すぎるから、効果音担当、雰囲気・仕上げ・スパイス担当、って感じかな。
大げさなポーズをつけておもちゃのマラカスを振ったり、空き瓶を叩いたり、鳥の声の出る笛を鳴らしたり。
ある曲では、歌の合間にでっかいベルを2〜3回鳴らすだけで、あとは神妙な顔で仁王立ちしてました。

自分の演奏なんてどうでもいい。
末井さんが隣でけっして音楽的ではない感動的なソロを吹いているのに、他に何も付け足す音なんてない。
そんなことしたら、せっかくの「場」がくずれてしまう。
その「場」がよければ、クラリネットを吹く必要はないんです。
まあ、もともと、アート系パフォーマンス系バンド(?)、Bonzo Dog Doo Dah Bandが好きで音楽活動を始めてますからね、演奏願望がうすいんですよ。
いい音楽、いや、いいステージをつくりたいだけで、「ミュージシャン」になりたい欲望なんて、持ったことすらありません。


もちろん、音楽的に演奏することも大好きですよ。
でもそれ以外の感覚を持っていることが、ペーソスでは役に立っています。
こんな変なバンドに入ってこんな風に自由にやれる俺すごいな、と思います。
とても、楽しいです。


なんて書きながら、今日はめずらしくセッション・ライブに参加します。
昨日のステージが嘘のような、音楽的な演奏になるでしょう。
いいライブになるといいな。

※昨晩の小物たち

2017年6月19日月曜日

Instagramを始めてみた

インスタグラムをはじめました。
きっかけや理由はありません。
そういえばやってなかったなーと思って、ある日ふと、アプリをiPhoneにダウンロードしました。
最初の写真をアップしたのは、その数日後。
それから毎日なにかしら写真をアップしています。
って、まだ一週間もたってないけど。

使い方がよくわからない。
どんな写真をアップしたらいいのか。
他の人の投稿をのぞいてみても、いまいちピンとこない。
すでに使ってる人に会うたびに聞いてみるけど、やっぱりわかりません。
わからないけど、まあとりあえずやってみよう、という気持ちで、写真をアップしています。


FacebookやTwitterよりも、これからはInstagramだ、っていう声も聞きます。
たしかに、意外にみんなインスタやってるんですよね。
Facebookはやらずにインスタだけ、っていう人も、いるんでしょうか。
でも少なくとも、まわりではまだFaceeookが主流な気がします。
音楽やってると、人と出会う機会がたくさんあって、そういうとき連絡先を教えあうんじゃなくて、Facebookで繋がることが多い。
あとから連絡しようと思ったときもFacebook上でメッセージが送れるので便利ですしね。

便利だけど、やらない人もいます。
そういう人の言うことは決まっていて、他人が今日なにを食べたかなんて興味ない、とか、「いいね!」の意味がわからない面倒くさい、とか。
けっきょく、他人にどう思われるかを気にしてるんですよね。 
嫌われるのが怖いから、ヘタなことしたくないから、関わらない。
安全地帯から踏み出すことをしない。
そうしていれば、たしかに悪いことも起こらないだろうけど、いいことも起こらなくて、閉塞していくだろうに。

僕はそういう考え方が嫌で、とりあえずなんでもやってみよう、と心がけています。
が、それにしてはInstagramにはなかなか手が伸びかなった。
「写真」ていうことに、なんとなく食指が動かなくて。
昔から、写真て撮らないし見ないんです。
もしかすると、少し前にアーヴィング・ペンと出会って写真の良さを知ったことが、どこかで後押しになったのかもしれない。


インスタに写真をアップして、それがどういう風にいいのか悪いのか、まだ全然わからない。
写真って、何をどう撮るかに、どうしても自分のセンスが現れます。
それが知らない人に評価されたりするのかな。
逆に誰かにバカにされることもあるかもしれない。
でも、結果を考えてたら、なんにも始められない。

昔の、たしか辞書のCMで、「じっとしてたって、なにもはじまらないぜ!」って大友康平が言う声を、なぜかときどき思い出します。
別にいいCMでもなんでもなかったはずなのにいまだにセリフを覚えてるのは、10代の僕はその言葉に自分なりの意味づけをしてたんでしょう。
若くて、情熱があったんでしょう。

いまは、どうかな。
とりあえずインスタ続けてみます。

2017年6月15日木曜日

N.O.生活 25 - アルバート式クラリネット奏者 Tom Sancton

たしか大学四年の頃です。
Tom Sanctonが、長いフランス暮らしから戻ってきました。
ニューオリンズ生まれの、アルバート式クラリネット奏者。
若い頃からトラディショナル・ジャズに傾倒した、珍しいタイプのミュージシャンです。
前回も書いたけど、若いミュージシャンはトラディショナルなスタイルには見向きもしないのが普通ですからね。
しかもトムは、伝説的なクラリネット奏者 George Lewisから直接手ほどきを受けているという筋金入りです。

ジョージ・ルイスは、トラディショナル・ジャズの世界で最も影響力のあるミュージシャンです。
分散和音に徹したシンプルでリズミックなフレージングと、歌うように自由な表現は、後のクラリネット奏者の手本となっています。
一緒に演奏したことのあるミュージシャンの誰もが、まるで楽器ではなく声のようだった、と絶賛します。
もちろん、楽器はアルバート式です。

ジョージ・ルイスのフォロワーは世界中にいますが、実際に側について教わったクラリネット奏者は多くありません。
トムはそのことに誇りを持っていて、トラディショナルなスタイルを守った演奏活動を行なってきました。
しかし、ニューオリンズでは、1970年代頃から、古いスタイルのジャズは廃れていき、「食う」ためには、観光客向けのディキシーランド・ジャズを演奏しなくてはならなくなりました。
トムはその流れに背を向け、文章を書く仕事を始めたんです。
そして、フランスに渡りジャーナリストとして活躍しながら、ヨーロッパのトラディショナル・ジャズ・シーンを牽引してきました。


僕はちょうどそのころ、アルバート式クラリネットに持ち替えようか、迷っていました。
日本にいた時は、もともとアルバート式を使ってたんです。
大学に入る際に、「ジャズ」のテクニカルな演奏にはアルバート式では限界があるので、普通のクラリネットに持ち替えました。
それがようやく「ジャズ」の単位を終え、楽器にこだわる理由がなくなったところだったんです。

トムに相談しました。
アルバート式クラリネット奏者としては、世界でもトップのひとりです。
自宅を訪ね、たくさんの楽器を吹かせてもらいました。
メーカーごとの特徴や材質による違いを、実際に吹き比べることができる機会なんて、そうはありません。
中には歴史的な楽器もあって、貴重な経験でした。
僕はフランスのBuffet Crampon 製のアルバート式が好きなのですが、それもトムの家で吹き比べた経験がなければ出会えなかったでしょう。

トムと話して、伝統的なニューオリンズ・ジャズが自分にとってどれだけ大事か気づかされました。
ニューオリンズにいる間、トラディショナルな音楽について話のできるミュージシャンには、ほとんど出会えませんでした。
「ニューオリンズ・ジャズ」として演奏していても、過去の伝統との接点はなく、ただ古い曲をなんとなくスイング調のマナーで演奏するだけ。
伝統に対するリスペクトも、興味もない。
そんな状況からのストレスが、トムと話すことで晴れていきました。
もしかしたら、トムがいなかったら、アルバート式に持ち替えてなかったかもしれません。


トムと、前回書いたマイケル・ホワイト。
この2人との交流が、僕の進路の選択に大きな意味を持ちました。
やりたい音楽しか、やらない。
そのために、ふたりとも音楽以外の職を持っています。
特定の音楽を愛するなら、それと正反対の、相容れない音楽も必ずあるものです。
それをやることは、愛する音楽への、そして先人たちへの裏切りになる。
トムが若い頃を振り返って「バーボンストリート(ニューオリンズの観光街の中心)で毎日くだらないディキシーランド・ジャズを演奏するなんて、絶対に嫌だった。」と、強い口調で言ったことが、忘れられません。

意思を持って真っ直ぐにキャリアを築いてきた2人を、尊敬します。
音楽は、楽しければいい、っていうものではない。
それを、再確認させてくれた。
ふたりの後に続きたい、と強く思いました。
いまでも思っています。

※George Lewis と演奏する若き日のTom Sancton

2017年5月30日火曜日

いま『桐島、部活辞めるってよ』見て興奮している

早書きします。

『桐島、部活辞めるってよ』を見た。
ずっと気になってた映画。
みんないいっていう。

すごく良かった。
びっくりした。
繊細なのに、気取らない、とってもいい映画。
説明的な余計なシーンがぜんぜんないから、1時間半ちょいの長さで十分。
短い映画っていうのは、いい。
終盤のゾンビのシーンで、わけのわからない感動が押し寄せてくるのには、驚いた。
突然ゾンビが襲いかかってくるのを見て、なんで感動するんだろう。
熱量、かな。
自分が高校生の頃って、自分でもよくわからない熱や衝動が、理由もなくわきあがってくることがある。
そういうのに、通じるのかもしれない。
やられた!と思った。
もっとやってくれ!と、興奮で泣きそうに見ていた。
8mmの映像も、効果的にグッとくる。
俳優はみんな若くて、案の定、誰一人として演技はうまくない。
でも、それでもこんなにいい映画になるって、すごいな。
こんな映画、他にないでしょう。
素晴らしい。

もっと早く、見とけばよかった。
これの公開時は、まだ映画をそこまで見てなかったし、邦画なんてよけい興味なかったんだよな。
いまは、映画を見るようになった。
見たい映画がたくさんある。
レンタル屋に行けば、これも気になる、これも見てない、っていうのばっかり。
何せ20年くらい映画をほぼ見てなかったから、むかし見た映画も忘れてて、もう1回見たい、って思う作品も多い。
俳優も監督も、名前を忘れてたりする。

『桐島〜』は、鼓舞してくれる。
その意味で、正しい青春映画です。
見終わって、ああもっと楽器を練習したい!と、思わずにいられない。
そう、楽器を、音楽をやりたい。
でも、映画だって見たい。
気になる新作もあるけど、やっぱり名画も見なくてはならない。
新しい映画もどんどん作られる。
本も読みたい。
全部はできない。

こんなブログなんか書いてる間に、音楽のなにかやればいんだけど、感動してしまった時にはそうもいかない。
だから、この感動をここに残して、今日費やしたものを、明日からの燃料にするわけです。

いい映画はいいね。
どんなときも、裏切らない。
いい音楽も。

2017年5月26日金曜日

小説を読みます

近ごろブログの更新頻度が落ちたのは、小説を読むようになったからなんです。
ずいぶん長いこと小説なんて読んでなかったから、なつかしくて新鮮です。

高校時代までは、小説をよく読んでいました。
進学校だったので、岩波文庫をたくさん読むのが偉い、みたいな価値観があったし。
外国文学が多かった。
ヘルマン・ヘッセと川端康成が好きでした。
ヘッセの遺作の豪華本みたいなのも買ったくらい。
とにかく、過去の名作をたくさん読みました。

それが、音楽が人生の中心になって以来、もう20年も前ですが、本を読むといえば、音楽関係のものばかりになりました。
図書館の「音楽」の棚にある本を片っ端から、知らない音楽家の伝記や、触ったことのない楽器や馴染みのない音楽ジャンルについて書かれた本まで、手当たり次第に借りるようになって、小説を手に取ることはなくなりました。
たまに読むことがあっても、それは音楽絡み。
音楽を扱った小説や、ブラック・ミュージックが好きなので黒人文学はかなり読んだけど、それは純粋に小説を読みたい、という気持ちとは違いました。


ずっと音楽ばっかりだったのが、去年くらいから、また映画を見るようになりました。
そして最近になって、小説をも読みはじめました。
三島由紀夫や太宰治を読み返してみたり、東野圭吾もはじめて読みました。
だんだんなんとなく、現代の小説を読みたくなりました。

現代の小説は、あまり通ってこなかったんです。
家を出たハタチごろ、まだ音楽をやる前の数年間に、少し読んだくらい。
そのころ、山田詠美が好きでした。
そうだ大好きだったな、と思い出して、読み返してみたくなりました。
図書館で、『風味絶佳』を借りました。
実はこの本、アメリカ留学中、夏休みで帰国したときに、買って読んだことがあったんです。
とても感動して、アメリカに戻るときに持って行ったのに、空港かどこかに置き忘れてしまって。

短編集です。
久しぶりに読み返して、あらためて心をうばわれました。
例によって、内容はほとんど覚えていなかったので、はじめて読む感覚で味わいました。
文章が、いい。
情感があります。
ページをめくるのがもったいないほどです。
山田詠美の作品の中でも、そしていままで読んだ本の中でも、ナンバーワンかもしれない。


約20年のブランクのあとで、小説を読む楽しさを、知った気がします。
そうしてみると、読みたい本がたくさんある。
以前はブログを書いてた時間に、小説を読むようになりました。
しばらくは、こんなペースが続くでしょう。
どうかよろしく。

2017年5月21日日曜日

映画って、ストーリーだけじゃないでしょ。

ネットで映画の感想を探すと、たいていストーリーのことしか書いてない。
映画感想ブログなんつって、あらすじばっかりが長々と書いてある。
小学生の読書感想文かって。

ストーリーの良し悪しだけなら、映画じゃなくたっていい。
テレビだって小説だってマンガだっていいじゃん。
それ以外のいろんな要素が絡み合って、映画でしか味わえないものがあって、だから僕は映画が好きなんだけど、どうやら多くの人はストーリーにしか興味がないみたいです。
どうせ話がかみ合うわけないから、誰かに「映画が好き」と言われても、「俺も好き!」なんて返すことはせずに、慎重に距離をはかることにしています。
みんな大好きな”衝撃のラスト!”とか、まったく興味ないしね。


いままでの映画で心に残ってるのは、ストーリーじゃなくて、特定のワン・シーンであることがほとんどです。
セリフがない、たとえば風景が映るだけであっても、特別な情感が残るシーン。
いまパッと思いつくのは『シェルタリング・スカイ』の砂漠で抱き合う二人を空から撮るシーン、『マンハッタン』の夜明けの橋の下、『存在の耐えられない軽さ』の白く消えて行くラスト、『レイジング・ブル』の最後の、画面にすら映っていないシャドー・ボクシング、『バイバイ・モンキー』の冒頭のマストロヤンニの泣き顔のアップ。
どれもセリフのないシーンです。
『バイバイ・モンキー』なんて、ストーリーすら覚えてないもん。

そういえば、顔のアップで思い出すのは『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』の、デ・ニーロの顔を映して終わるラスト。
あの表情は、なんなのか。
説明できないからこそ、頭を超えて感情に刻まれるんですよね。
あと、きのう見た『カフェソサエティ』のラストのジェシ・アイゼンバーグの顔のアップも素晴らしかった。
表情というかもはや目と顔の緊張感だけで、いろんなものが伝わってくるんだもん。
いい役者って、ただセリフを覚えてそれっぽく言うだけじゃなくて、言葉やストーリーで説明できないものを表現することができるんですよね。
たとえば『冷たい熱帯魚』なんて、でんでんと吹越満じゃなかったら、つまんない映画だったと思うし。
ストーリー以外のそういう面白さが分からないと、映画の魅力って半減するんじゃないかな。


映画によっては、ストーリーを追うだけじゃ面白さの分からないものもあります。
たとえば『コットンクラブ』のラスト。
非現実的なシーンだと分からずに、2人で逃げてハッピーエンド、っていう風に解釈しちゃって、安易な終わりかただな、なんて思う羽目になる。
もっと有名な映画だと『インターステラー』もそう。
あのラストも、非現実だと解釈できるようになってる。
しかも、誰かの空想、などときっちり説明できない、あいまいなもの。
その、あいまいなのが、いいんじゃん。

映画じゃなくても、たとえばマンガでも、有名な『あしたのジョー』のラストのコマ。
ジョーが死んだのかどうかなんて考えてもちっとも面白くない。
あの、あいまいな、言い切らない、説明しないのが良いんじゃないですか。
『デビルマン』もそう。
解釈不能なラストが、名作度を高めてる。
ただ、このマンガの場合、作者自身が後に書き足して陳腐な説明を加えて駄作にしちゃったという、おかしなケースですが。
『デビルマン』は、書き足しのない「完全復刻版」を読まないとダメですよ!


言葉で説明できない感動っていう、映画ならではの魅力は、少なくともネット上の「映画ファン」の人たちには、アピールしないみたいです。
もったいないな、と思います。
映画ってもっと、人生を変えるくらいに面白いのに。
僕は『父の祈り』の終盤のダニエル・デイ・ルイスの表情に打たれて、その場で大学辞めて、本当に人生変わりましたからね。
そんな風にして映画に出会えた僕は、ストーリー重視の「映画ファン」よりもずっとラッキーだと、思ってます。

2017年5月19日金曜日

『マーク・リボー&デビッド・イダルゴ』!!

マーク・リボー&デビッド・イダルゴのライブにいってきた。
とてもよかった。
お互い1曲づつ交代で歌うんだけど、曲もその場で決めてるような、ゆるいライブ。
演奏しながら曲を探ってたり、どうやって終わろうか考えながら目を見合わせてる。
主催の麻田さんが開演前の挨拶で、「往年のロックスターが年老いて場末のバーで演奏してるような〜」みたいなことを言ってたけど、まさにそんな感じでした。
もちろん、ほめ言葉です。
あんな風に気負わずに自由にライブやれたらいいなー楽しそうだなー。
そして、こんなラフで生き生きした演奏を楽しめるお客さんが、クアトロ満員になるくらいいるってことは、東京の音楽ファンも捨てたもんじゃないと思いました。


マーク・リボーを知ったのはたぶんトム・ウェイツの『レインドッグ』です。
調子っぱずれのようにも聞こえる、キャプテン・ビーフハートを連想させるような、素晴らしく個性的なギター。
それ以来、好きなギタリストと聞かれるたびに名前をあげていたくらい。
昨日のライブではいろんなスタイルの曲をやったので、ギタリストとしてのすごさがあらためて実感できました。
音楽を、メチャクチャ聞いて研究してる人なんだろうな。
どんな曲調でも、ちゃんとそのジャンルの背景というか伝統というか、ツボを押さえた演奏をする。
けっして奇をてらったことはしないのに、強烈に個性的。
なんなんだろう。
音色なのか、発音なのか、タイミングなのか。
ジャズの語法で乗り切る「上手い」ミュージシャンとは、ぜんぜん違います。

そして、デビッド・イダルゴを見れたことが、単純にうれしかった。
ロス・ロボスは、グレイトフル・デッド、NRBQと並ぶ、大好きなバンドのひとつなんです。
でも、ライブがすごい!って評判はさんざん聞いてたのに、何度か来日してるのに、見に行ったことないんですよ。
今回はバンドじゃないけど、はじめて見た、デビッド・イダルゴ。
ギターのフレーズもいちいちカッコいいし、歌もすごくよかった。
ロス・ロボスって、ボーカルがすごくいいと思ったことは、実はないんです。
それが、実際に見ると違うもんですね。
とってもいいミュージシャンだという、分かりきったことを、生で見て実感しました。

驚いたのは、『ラテン・プレイボーイズ』から2曲も演奏したこと。
あれって、楽曲や演奏だけじゃない、サウンドも含めての作品と思っていたので、まさか弾き語りのライブでやるとは。
大々好きで何度も何度も聴いたアルバムですからね、そりゃ興奮しましたよ。
しかも、ライブの一曲目が "Manifold De Amour" だったんですが、イダルゴが弾くのは、なんとチェロ!
その一曲のためにチェロを用意していて、しかも決してチェロプレイヤーとして達者なわけでもなくて、それがライブのオープニング・ナンバーだなんて。
その気負いのないスタンスが、素敵です。


2人とも、上手く演奏する、とか、ミスをしない、とか、そんなレベルにはもはやいないんですよね。
キャリアのあるミュージシャンだし、もっと「上質」な演奏だって、できたでしょう。
でも、音楽って、そういうことじゃない。
人生を語る、言葉のない会話のようなもの。
それができるミュージシャンて、本当にあこがれます。
演奏のはしばしから二人の体験してきた音楽の歴史が聴こえてきて、さらにそれを共有できるお客さんがいて、とても幸福なライブだったと思います。
本当は、もっとカジュアルなお店で見るのがいいんだろうけど、まあ来日ということでは仕方ないですよね。

素晴らしいライブでした。
二人を呼んでくれたトムズ・キャビン、麻田さん、ありがとうございました!

(写真はTom's Cabinより)

2017年5月9日火曜日

『アーティスト』!!

『アーティスト』を見ました。

素晴らしかった!
内容からして、間違いなく好きだろうと予想はしていたけど、まさかここまで素晴らしいとは。

2012年に米アカデミー作品賞を取った、フランス製作の白黒サイレント映画です。
舞台は、映画がトーキーに移行していく時代のハリウッド。
落ちぶれていくサイレント映画のスターと、トーキーの新進女優のお話。
はっきり言って、ベタなストーリーです。
でも、その王道・定番さが、いい。
ツボを押さえたストーリーの上で、映像で魅せる映画です。

セリフがないことが、効果的です。
例えば、ケガをした主人公のベッド脇から、ヒロインが話しかけるシーン。
おそらく自分の毎日の出来事を、夢中で話して聞かせている。
話の内容がわからないぶん、イキイキと楽しそうな表情に目がいきます。
続いて、聞いている主人公の表情が映されると、とっても優しい顔をしてる。
幸せな気持ちが、伝わってきます。
このシーンにセリフがあったら、会話の内容に意識がいってしまう。
でも、言葉の情報がないおかげで、そこで二人がどんな気持ちでいるか、っていうことだけが、見えてくる。
実際に、好きな人と話すときって、内容は重要でなかったりしますからね。

そんな素敵な場面がたくさんあります。
ふたりが初めて映画で共演する、パーティのシーン。
主人公がダンスのパートナーを変えていって、彼女と踊る番になると、笑ってしまって何度もNGを出してしまう。
どんな会話をしてるのかわからないけど、音楽が流れて二人の姿があるだけで、距離が縮まっていく様子が手に取るように感じられて、涙が出そうになりました。
もしセリフがあったら、ここまで胸に迫ることはなかったと思います。

圧倒されたのは、ラスト近く、銃を持った主人公をヒロインが止めに入るシーン。
それまで流れていた音楽が突然なくなって、無音になり、必死で説得する彼女主人公のやりとりが、ずっと無音の中で映される。
セリフが、そして音がないということが、こんなに胸にせまるなんて。
このシーンの間、僕は息もできないくらいの感動にのまれていました。
ある場面、ある箇所、というのではなくて、シーンの間ずっと心が揺さぶられ続けるなんて、はじめての経験です。
サイレントの力強さに、打ちのめされました。


中盤からは、もうトーキーの時代になっていますが、映画自体はサイレントのまま進んでいきます。
いよいよ音が付くのは、ラストのダンスシーン。
まずはステップの足音が聞こえてきて、ハッとします。
そして、最初に発せられる「声」は、躍動感あふれるダンスの最後、画面に向かってポーズを決めた2人の、なんと、息切れの音!
こういう、言葉では説明できない感動こそが、映画の醍醐味です。
しかも、このシーン自体が、サイレントからミュージカルへと続く古典映画へのリスペクトになっているのだから、打ちのめされます。

このシーンに限らず映画全体に散りばめられた過去の作品へのオマージュについては、賛否あるようですが、僕は好きです。
ただ引用してるのではなく、敬意が感じられて、その愛情が見る側にも伝わるから。

そして、単なるハッピーエンドではない、懐古趣味なんかではない、心に残る終わりかた。
感動に力がぬけて、疲れ果てたような心地よさが襲ってきました。
こんな風にして、疲れるほどに心が動かされる映画は、そうはありません。
他に思いあたるのは、『アンダーグラウンド』『ペーパームーン』『蜘蛛女のキス』くらいかな。

白黒・サイレントの力強さ。
隅々まで情感にあふれた、素晴らしい作品です。
見てよかった。


2017年5月2日火曜日

N.O.生活24 - Michael White とニューオリンズ・ジャズ

現在のニューオリンズでいちばん尊敬するミュージシャンは、マイケル・ホワイトです。
ニューオリンズを代表するクラリネット・プレイヤー。
定期的にN.Y.に呼ばれてウィントン・マルサリスのバンドで演奏し、エリック・クラプトンやポール・サイモン、タジ・マハールといったポピュラー・ミュージックのスター達からも録音メンバーに指名される。
CNNなどテレビ曲がニューオリンズを扱うドキュメンタリーを作るときにも、マイケルに取材をします。

しかし、ニューオリンズの音楽シーンでは、マイケルの評価は高くありません。
人気はあるんですが、それは一般の人々の間でのこと。
ミュージシャンからの評価は、はっきり言って低いんです。

理由のひとつは、マイケルはトラディショナルなスタイルしか演奏しないこと。
古いスタイルのニューオリンズ・ジャズをやるミュージシャンは、もはやほとんどいません。
現在のニューオリンズで聞かれるのは、スイング・ジャズ風のものばかりで、伝統的な泥臭いスタイルは好まれない。
なぜなら、いわゆる「ジャズ」的な要素がないから。
音楽的にシンプルすぎるので、一段下に見られてしまうんです。

もうひとつの理由は、マイケルが上手いプレイヤーではないことです。
実際、ピッチは悪いし、タンギングも粗いし、楽器もきちんと鳴っていない。
特にピッチとタンギングについては、クラリネット以外の楽器のミュージシャンであっても、一聴してわかるくらいです。
自身のアルバムの場合、レコーディング後の編集段階で、大幅なピッチ修正を行うとも言われています。

ニューオリンズのミュージシャンの多くはジャズ志向です。
ジャズとはテクニックが重視される音楽です。
マイケルはテクニックで勝負する音楽家ではないので、レベルの低い音楽をやってるヘタクソな奴、と思われているんです。 


マイケルへの評価は、とても象徴的です。
全米、そして世界的にも、ニューオリンズを代表するクラリネット奏者。
それが現地の音楽シーンでは、ヘタな奴と思われている。
一般の音楽ファンの価値観と、ニューオリンズ音楽シーンの価値観が、かけ離れている。
世界中の人々が愛するニューオリンズのイメージは、現地にはもう存在していないということです。
人々が惹かれるのは、テクニカルな部分ではありません。
ニューオリンズ独特の、リズムとハート。
現地でそれを体現しているのは、もはやマイケルと、その相棒のトランペッター、グレッグ・スタッフォードだけなんです。

伝統的なニューオリンズ・ジャズへの思いを誰とも共有できない、という悩みを、マイケルに話したことがあります。
マイケルは言います。
自分のライブはギャラが高いから、いいミュージシャンを雇って、リズムを指示して演奏させることができる。
彼らはいい仕事をするけれど、自分でレコードを買って家でも聴いてるとは思えない。
ニューオリンズ・ジャズに関心のあるミュージシャンは、もはや自分とグレッグ・スタッフォード以外は、1人も残ってないんだよ、と。
ズバリと言い切られて、ショックでした。
マイケルでさえ、一緒に音楽を共有できるミュージシャンを集めることができない。
それじゃあ、僕がいくら探したって、出会えるはずがありません。


マイケルも、音楽シーンでの自分の評判を知らないはずはないでしょう。
でも、何を言われようと、自分のやっていることに自信を持っている。
子供の頃から年上のミュージシャンに混じって演奏しながら音楽を体得してきた、という自負。
伝統を受け継ぐ、という意志。
そして、町の人々の踊る姿や話す様子を思い浮かべながら演奏している、と言う、それは、ニューオリンズ・ネイティブでしか体現できないことです。

楽器のテクニックが磨かれてないのは、その必要がないからじゃないかと、思います。
ニューオリンズ・ジャズをやるのに、なめらかなフレージングや、早いパッセージは不要です。
ピッチが合ってるかどうかも、重要ではない。
いやもちろん、上手いに越したことはありません。
でも、それよりも、もっと考えるべきことがたくさんあって、そうしていると、技術面のことへ向ける意識が少なくなるんですよ、きっと。
それは、空気感だったり、伝統的な「訛り」のことだったり、さらに人々の踊る姿なんていう音楽と無関係なことまでイメージしていたら、音の細部に向ける集中力は、そんなにたくさん残らないんじゃないか。
マイケルと話し、その演奏を聴いて、そんなことを考えます。


マイケルの音楽は素晴らしいと思います。
録音では、アラが目立つこともあるけれど、ライブは本当にスピリチュアルで感動します。
この感動を共有できるミュージシャンがニューオリンズにはいない、この音楽の価値がニューオリンズの音楽シーンでは評価されないという事実。
僕が惹かれたニューオリンズ・ジャズの伝統は、マイケルとグレッグがいなくなったら、途絶えてしまうのかもしれません。


2017年4月28日金曜日

平和な家庭にロックは似合うか

駅のロータリーで、ガンガンに激しいロックが聞こえてきたので振り返ると、乗用車から小学生の子供と母親が降りてくるところでした。
運転席にいるのは、スーツを着た40代くらいの男性。
ごく普通のサラリーマン一家に見えます。
車から流れるハードなロックと平和そうな家族の姿の組み合わせに、どうにも違和感を感じてしまいました。

ロックの好きな40代サラリーマン。
学生時代には、バンドやってたのかもしれない。
ちょっとモテたりして。
そこそこいい大学からそこそこいい会社に就職して、悪くない暮らしをしてる。
友達の中にはいまでも音楽やってるやつもいて、年一回くらい一緒に飲むこともある。
子供がロックよりもアンパンマンやポケモンに興味を持つのが、ちょっと不満。

そういう人は、きっとたくさんいるはず。
でも、妻と子供を送る車でロックをガンガンかけるのは、めずらしいんじゃないか。

じゃあ小さな音なら、いいのか。
想像してみると、それでもまだ引っかかる。
たしかに、大音量ってことも気になるけど、それが問題ではないのかもしれない。
これがジャズやクラシックやJpopだったら、音が大きくても、ここまでの違和感はないんじゃないか。
つまり、激しいロックは、平和なサラリーマン家庭には似合わない、っていうことなのか。

僕なんか、会社に勤めた経験もないし、サラリーマンの友達も多くはない。
会社勤めの人たちがどんな音楽聞いてどんなふうに生活してるのか、何も知らない。 
かわりに、ロックには詳しいです。
詳しいので、ロック=不良みたいなステレオタイプのイメージは、持っていません。
ロックやパンクを聞いてる人にだって、常識と社会性のあるマジメな人たちは多いってことも、知ってます。

そんな僕でも、平和なサラリーマン家庭のイメージとロックの組み合わせに、違和感を感じてしまう。
なんてことだ。
俺もしょせん偏見まみれなのか。
あらゆるバイアスや偏見から自由になりたいと、ずっとやってきたのに。

そして、そう思ってる自分ですら偏見から逃れられないんだから、そんなこと考えてないたくさんの人たちが、ミュージシャンを白い目で見ることは、とっても当たり前のことなんだよなー。
と、あらためて気づいたのでした。

2017年4月24日月曜日

GWO・町田謙介・井上民雄

土曜は町田謙介=マチケンさん、日曜はStumble Bumの井上民雄さんと演奏しました。
しかもマチケンさんにはGWOのギターもお願いしたので、GWO、マチケン、井上民雄、というスタイルの違う3つのライブをやったわけです。

GWOは、どれだけボーカルに近づけるか、というのがテーマです。
今回は、マチケンさんの極上のバッキングに乗って、まさに「歌うような」演奏ができました。
リハもろくにしてないのに、全体の完成度はかなり高かった。
さすがマチケンさん。

続くマチケンさんが主役のステージは、よりセッション的なものでした。
マチケンさんのミュージシャン・シップが高く、こっちも一瞬も気が抜けない。
レパートリーもバラエティに富んでいるので、曲ごとに僕のアプローチも変わる。
やってて気づいたけど、曲によって、バイオリンやオルガンやホーンセクションの音が、アレンジとして頭の中に鳴って、それをクラリネットに置き換えてるんですよね。
過去に聞いてきたルーツ・ミュージックの影響です。
こういう、クラリネット奏者らしからぬアプローチが、僕の個性なのかもしれません。

民雄さんとのライブは、楽曲が素晴らしく完璧なので、余計な音が出せない。
いかに邪魔をせずに曲のイメージを広げるか。
こんなに緊張感のあるライブは久しぶりでした。
そして、オリジナル以外に、 ブラインド・ブレイクなどのカバーをやりました。
カントリー・ブルースのボーカル・パートを、クラリネットに置き換える、という試み。
GWOのときの十分の一くらいの音量で、もちろんアドリブなんかナシで、淡々と吹きます。
100年前の音楽を100年前の楽器でやってるんだけど、これ、最先端ですよ。
他にやってる人いないもん。


僕はもともと、ニューオリンズ・ジャズのスタイルのクラリネット奏者です。
でも、いつの間にか、変わったことばっかりやるようになってしまった。
いまでは、一般的な管楽器奏者がやるような(いわゆる「ジャズ」寄りの)演奏は、月イチくらいしかありません。
いいのか、わるいのか。
はたして自分は、クラリネット・プレイヤーと名乗っていいのか。
もはやミュージシャンではないような気にすらなります。

そう、GWOを始めてから、このユニットだけは毎回ライブレポートを書いてたんですが、それももうこだわらなくていいかな、と。
もはや自分の音楽の主軸がどこなのか、わからないので。
全国のGWOライブレポートファンの皆様には申し訳ありませんが、今後はより気の向くままに、やっていきます。
いろんなことを。



2017年4月17日月曜日

N.O.生活23 - 消えゆく伝統

Moonshiners の解散でレギュラーライブはなくなり、いつも違うバンドで演奏するようになりました。
とはいえ、中身はそれまでとほとんど変わりません。
古いジャズをやるミュージシャンは大勢いて、いろんな店でローテーションのようにして演奏しています。
曲や音楽スタイルも似ているし、そもそも誰も彼もみんな知り合いですからね。

そうして大勢と演奏するうちに、気づいたことがありました。
みんなニューオリンズ・ジャズの過去の録音を知らないんです。
例えば、ニューオリンズ・ジャズの復興に大きな役割を果たしたプリザベーション・ホール・バンドのレパートリーなんか、本当に誰も知らない。
なぜなら、みんなレコードやCDを買わないからです。
スイング・ジャズ曲の譜面集を手に入れて、観光客が知ってる有名曲を覚えて、おしまいなんです。
それでチップはもらえるから。

曲を取り上げるとき、過去の名演があればそれを踏まえて演奏するべきだと、僕は思うんです。
どう演奏するにせよ、その曲の歴史を知ってリスペクトすること。
そういうスタンスが、古いベテラン以外の、特に若いミュージシャンには全くない。
ライブで「ニューオリンズ・ジャズ」と看板をかかげていても、それを勉強する気がないんですよね。
お客に受ける有名曲をやってチップが入れば、満足してしまう。

あるとき、ステージで僕が "Yearning" をやろう、と言いました。
その曲を知っていたのは、ベテラン・ドラマーのジェラルド・フレンチだけ。
めったにやらない曲をなので、ジェラルドはきっと嬉しかったんでしょう、他のメンバーが誰も知らないのに、やろう!と言って叩きはじめてしまった。
仕方ないので、僕がみんなにコードを伝えながらメロディを吹いて、なんとか演奏した、ということもありました。

一緒に演奏していても、周りのメンバーと曲の背景やイメージを共有できないことが、僕にはストレスでした。
だって、僕はニューオリンズ音楽が好きで、聴いて聴いて、海を渡り、その音楽が生まれた地で愛する音楽を演奏している、はず。
それなのに、バンドの誰一人として、ニューオリンズ音楽をリスペクトしていない。
これなら、日本にいたときの方が、ニューオリンズ音楽への思いを共有しながら演奏できていた。
音楽が好きで来たのに、いまではチップを稼ぐのが目的になってる。
なんのために、ここへ来たんだろう。
と、思いながら、毎日ライブをしていました。


ニューオリンズ・ジャズが好きで渡米してくるミュージシャンは、もちろん今までも何人もいたわけです。
でも、いざ来てみると、実は町で演奏されている音楽は、ニューオリンズの伝統とはすでに別モノと化している。
みんな失望して、数年のうちに町から去っていく。
というのが、ここ10年以上のパターンだそうです。
その話を聞いたとき、とても悲しい、絶望のような気持ちになりました。

僕がいたときは、ハリケーンを境に若いミュージシャンが増えたこともあって、その傾向に拍車がかかっていました。
もう町では、ニューオリンズ音楽の伝統は過去のものとして消えかけていたんです。