コーヒーカップと自尊心

家でよくコーヒーを飲みます。
サーバーにドリップしてから、カップに移します。
たいてい同じカップを使います。
容量は標準的なコーヒーカップくらい。
マグカップみたいな形をしています。
大きさもちょうどいいし、ややムラのある水色で、デザインも気に入っています。
マグ感覚で別の部屋に手軽に持っていけるのもいい。

たまに、ちょっとだけ飲みたいな、というときがあります。
そうすると、このカップだと大きすぎる。
半分だけ注ぐのも、落ち着かないし。
そういうときのために、デミタス・サイズのソーサー付カップも持ってます。
持ってるんですが、最近は出番がへってきました。
カップではなく小さな湯呑みのようなものを、使うようになったんです。

めんどうなんですよ。
持ち運ぶには、ソーサーごと持たなきゃいけない。
そうすると、カタカタゆれて、こぼさないように気をつかいます。
ちょっと急ぐとすぐにソーサーにこぼれて、あとからふき取るハメになる。
テーブルに置くにも、ソーサー分の場所を取る。
洗うのも棚に戻すのも、カップとソーサーとふた手間かかる。

たいしたことでは、ないんですけどね。
それでも、ソーサーをセットするひと手間が、めんどうに感じてしまって、デザインはデミタス・カップの方が好きなのに、つい湯呑みのほうを手に取ってしまう。

ああ、これはよくない兆候だ。
なんでもラクなほうへ傾いていったら、よくない。
いまはまだいいけど、歳をとったら、きっとどんどんだらしのないことになる。
コーヒーカップだけじゃなくて、持ち物や服へのこだわりもなくなって、出かけるのもめんどうになって、なんでも後まわしにして、ゴチャゴチャした部屋にずっといるのがラクだ、と言ってそれで満足してしまうかもしれない。
そんな自分の姿を想像しても、ちっともワクワクしません。

ラクだ、ということを第一に考えるようになると、いろんなものが自分のなかから消えていく気がします。
たぶん自尊心と言ってもいい。
それがあるから自分が好きだと確信できるもの。

着るものや持ちもの、ことばや考えかた、進む道。
ぜんぶを、自分で選びたい。
ひとつひとつ自分の選択を肯定する。
小さな肯定が積み重なって大きくなって、自分自身を好きになれる。
自分を認めて尊敬できるようになる。
コーヒーカップひとつが自尊心につながっていく。

いけないいけない。
ひと手間かけて、デミタス・カップを使おう。

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