2017年1月24日火曜日

キングコング西野は好きになれない

キングコング西野という人の絵本無料化について、いろいろな声を目にします。
それで、本人のブログを読んでみたら、ちょっとイヤな気分になりました。
彼の主張のいいわるいじゃなくて、書き方が、イヤです。

少し前に話題になった長谷川豊氏と、同じ感じ。
自分は正しい、というスタンスが全体をおおっている。
正しい俺はすごい、わかんない奴は劣っている、みたいな。
正直じゃなくてかっこつけているのも、イヤです。
誠実さが、欠如している。
会ったことないし、テレビ見ないから動いてる姿や声も聞いたことない、つまりぜんぜん知らない人で、絵本以外の本業?の内容や人間性とかわからないけど、ブログを読む限り、自己顕示欲の強くて身勝手な、エリート意識の高い人、という印象を受けました。
そういう人には信者が大勢つくのでどんどん態度がエスカレートしていきがちで、長谷川氏のケースなんかいい例でしょう。

このタイプの人って、人の意見に対して、素直にうなずくことをしない。
反対意見を受けつけないんです。
自分の発言が100%相手に伝わらなきゃおかしいと信じてる。
なぜなら正しいから。
正しいから、余計な説明する必要はない。
正しい考えを理解できないほうが、バカで悪だから。

自己中心すぎます。
誤解されたと感じたら、それはたいてい自分の言い方が悪いんだと思うけどな。
どんなに正しい意見だって、地球上の全員に瞬時に納得してもらえる言い方は、あり得ない。
たとえばアメリカ人に伝えるには英語に翻訳しなきゃいけないように、立場や考え方の違う人に伝えるには、言葉や言い回しを変えなきゃいけないはずです。

思わぬ反論を受けたら、「ブログちゃんと読めばわかるでしょ。ここにこう書いてあるのを、読み取れないオマエが悪いんだよ。」って言う前に、「なるほど、そういう見方もあるかもしれないな」って想像をめぐらすことが、なんでできないのか。

自分が間違ってる可能性を、想像することができないんでしょうか。
100%正しい意見も、100%間違った意見も、ありえない。
どんなに自分と違う意見でも、ぜったいに理由や根拠がある。
どうしてその意見にたどりついたのか、という、他者の思考を想像することができないはずはないでしょう?だってアナタは頭がいいエリートなんだから。
って、言いたくなってしまうほどに、不器用だと感じてしまいます。


ひとことで言えば、想像力の欠如。
それは西野氏プロデュースの絵本からもそう感じました。
ちょっと読んでみたんですよ。
絵も文も、ものすごく説明的で分かりやすい。
即物的です。
なんというか、スキマのような部分がなくて、物足りない。
ラッセンの絵みたいです。
なんだかよく分からないからこそ想像しようとするわけで、ぜんぶ説明されたものは、どれだけ面白くたって、想像力を刺激されることはない。
西野氏は「はらぺこあおむし」を悪く書いてるけど(本当は悪く書く気はなくて、言葉が下手なだけなのかもしれませんが。)、少なくともあの絵本は、有名だからというだけで惰性でずっと買われ続けてるわけじゃないと思います。
大人になったいま読んでみても、すごく想像力を刺激されるから。
エリック・カールやディック・ブルーナの本は、僕の感覚では、西野氏の本とは対極のものです。

西野氏は、「ウォルト・ディズニーを倒す」のが目標と言います。
彼は、表現者・創作者タイプではないんでしょう。
先人を「倒す」って発想は、表現者であれば出てこないですよ。
だって表現て、勝ち負けじゃないから。
数字で比較できないのに、勝ちも負けもない。
本の場合、数値化できるのって部数しかないわけで、彼は「100万部」売るのが目標と言うし、ディズニーよりたくさん売る、利益をあげる、ってことなんでしょうか。

売れるというのは、多くの人が受け入れる、ということであって、それはもちろん悪いことじゃない。
でも、それが目標って、どうなんだろう。
いいものを作りたい、という目標と、100万部売りたい、という目標を並行して持つことはできないと思うんだけど。
単純に、2つの目標を同時に追い求めることはできないから。
彼の発言からすると、たくさん売ることが第一目標でそのために作品を作った、という風にしか解釈できない。
僕はこの絵本をチラっと読んで、50年後100年後にミッキーマウスより広く愛されるだろう要素は、どうしても見つけられなかったんですよね。
仮に、いまやってるようなマッチポンプ的なやり方で一時的に世界一のセールスをあげたとしても、後世に残るような作品ではまったくないと思う。


子供の本は、親が選ぶことが多いでしょう。
想像力を必要としない絵本が、西野氏のイメージ戦略とたぶん知名度によって多くの親に買われる。
「はらぺこあおむし」のような、 想像力を育ててくれる本に触れることなく、子供たちは大きくなっていく。
そうして想像力のない大人になればもちろん、自分の子供にまた即物的なものを与える。
世の中から想像力が失われていく。
そういうループができあがっている。

と考えると悲しくなることが、僕はあります。


最後に、この件に関してなるほど、と思えた記事をリンクしておきます。
ハックルベリーに会いに行く『キングコング西野さんの絵本の売り方について


2017年1月19日木曜日

急な訃報

朝ネットを開くと、知人の訃報がとどいていた。
突然のことでびっくりした。
近しかった人に、すぐに電話をかけた。

死因は肝硬変らしい。
まわりも、気づいていなかったそうだ。
本人は知っていたのか。
家族は知っていたのか。
わからない。

僕の演奏をたまたま聞いて、よろこんでくれて、そこから付き合いが始まった人。
よくライブにも足を運んでくれた。
いいね〜、って、言ってくれた。
いつも心から。
彼のクラリネットはいいんだよ〜、って話す声が聞こえた。

お酒が好きな人だった。
ゴールデン街に連れて行ってくれた。
最後に会ったのは年末、新宿駅のホームで、最近飲みすぎてて、って言ってた。
フラフラしてた。

そこそこの歳だったけど、まだ死ぬには若すぎる。
あんなに元気そうだったのに。
とにかく急なことで、ショックで、そのあとからは、もっとたくさん会っておけばよかった、という気持ちが湧いてきます。
後悔、というのとはちがう、未整理で悲しい気持ち。

いや待てよ、俺はほんとうに悲しいんだろうか。
この気持ちは、相手があの人だからなのか。
誰かが死んだから悲しい、という、反射的で自動的で一般的な、ある意味お約束な感情じゃないのか。
気持ちを切り替えてみたら、すぐこの悲しみは去ってしまって、いつも通りの一日を過ごせるんじゃないか。
悲しいフリをしてる、俺は偽善者なんじゃないか。
と疑ってみても、あの人の顔や声が浮かんできて、そうすると心が乱れる。

たいしたことじゃない。
みんな死ぬんだから。
急で心の準備がなかったから、おどろいているだけ。
って、いくら考えてみても。

自分はあと何年生きるのか。
20年?30年?
もしあと50年生きたとしても、そのころには体にガタがきてるだろうし、元気で好きに過ごしてはいられないだろう。
意外と時間は短い。

こんなこと、いつもは考えないのに。
誰かが死んだときだけ、急に人生に想いをはせてみて、しんみりした気持ちにひたって、なんて都合のいいことか。
それにしてもこの脱力感は、なんだ。
どうして涙が出そうになるのか。

歳をとるにつれ、死に出会うことは増えるだろう。
長生きすれば、友達の死にも立ち会うだろう。
そのたびに、こういう気持ちになるのかな。
それとも、慣れるものなのかな。
例えば僕の知ってるあの人は、年齢的に、周りの死にもたくさん出会ってきたはず。
それって、どんな気持ちなんだろう。
あるいはあの人は、健康的な生活とはほど遠いし、もし若く死んだとしても、驚かないかもしれない。

考えが、散り散りになって、まとまらない。
だから、今日はいちにち、何もしないことにした。
いい映画を見にいって、いい音楽を聞きにいって、人と会おう。
そんな日があってもいいんじゃない?
あの人はそう言うだろう。


2017年1月16日月曜日

ユーリ・ノルシュテイン『話の話』は本当に美しい

イメージ・フォーラムに、ユーリ・ノルシュテイン特集を見に行きました。
ああ美しい。
劇場で見れて本当によかった。


チラシには、「アニメーションの神様、その美しき世界」とあります。
神様なんて呼ばれてるんですね。
僕はアニメーションに詳しいわけではなく、そうした評価については、あまり知りませんでした。
たくさんの賞も取っていて、世界的に尊敬を集めているそうですね。


『話の話』をはじめて見たのはハタチごろだと思います。
どっかで借りたんです。
お茶の水のJANISか、高円寺のオービスか、吉祥寺の小さなレンタル屋か、高田馬場か。
とにかくどこかで借りて、高円寺の狭い部屋の、水色に塗った、14インチかな?の、いちばん小さなサイズのブラウン管のテレビで見たはずです。

なんで借りたのかも、覚えてません。
当時はとにかく映画が好きで、レンタルで1日3本とか、面白そうなものを片っ端から見ていました。
話題作や名画はもちろん、いわゆるアート寄りのものやカルト作品も見ていました。
そういうデレク・ジャーマンとか変わったものはアップリンクが出してることが多くて、ビデオの背にアップリンクのマークが入ってるものは、とりあえず手に取ってみてました。
たぶん、『話の話』もアップリンクがビデオ化してて、それで気になって借りたんじゃないかな。

まだ海外のアニメに人気が集まる前です。
他には、ヤン・シュワンクマイエルとフレデリック・パックと、あと知られていたのはスノーマンくらいじゃないでしょうか。
そういう状況で『話の話』もパッケージ化されてたんだから、名作としての評価をどこかで耳にしていたのかもしれません。

予備知識はありませんでした。
ビデオのパッケージに書いてある紹介文だけ。
知らずに見て、魅了されました。
わかりやすい映画じゃない。
意味やストーリーは、よくわからなかったと思います。
でも、深く心に残りました。
『話の話』は、短編です。
30分しかない。
なので、借りたビデオには、他の作品も入っていたんだと思います。
ノルシュテイン作品じゃなかった気がしますが、覚えていません。
『話の話』の印象しかない。
それくらい、感動したんでしょう。


2度目に見たのは、それからたぶん数年後、友達が、テレビでやった番組か映画かを録画したものを貸してくれたことがあります。
僕はもうテレビを外していて見れなかったので。
で、その番組か映画かを見終わったあとに、たまたま続けて『話の話』が入っていたんです。
びっくりして嬉しくて、また見てああやっぱりこれ好きだなーって思いました。
その感動が強くて、目的の番組か映画かが何だったのか、まったく思い出せません。
彼は小説家を目指してた。
しかも、志茂田景樹みたいなやつを。
いまどうしてるんだろう。


今回は、3回目です。
劇場で見るのははじめて。
期間も空いているし、内容は断片的にしか覚えてない。
前に見たときの感動した記憶だけが、あって、ワクワクします。
他のノルシュテイン作品も一緒に上映されるというのも、楽しみでした。

ぜんぶで6作品。
どれも素晴らしかった。
初期のはテイストも違うけど、面白い。

でもやっぱりその中でも『話の話』が大好きです。
この映画の魅力を人に伝えるのは難しい。
明確なストーリーらしきものは、ありません。
イメージ映像というか、かっこよく言えば、映像詩、でしょうか。
映像が圧倒的に美しい。
でも、絵が美しいからいい、ってわけじゃない。
なんか見てるあいだ中、自分の中になんとも分類できない感情みたいなものが湧き上がってくるんです。
ロマン、郷愁、あこがれ、ふれあい、愛、哀しみ、滋味、家族やともだち、人生、我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか。
言葉であらわせない。

さすがに3回目だし僕自身もむかしより多くのものを見てきたし、テーマのような内容のようなものは、なんとなくわかります。
戦争というのが、監督の体験的にもソビエトの歴史的にも重要な要素であって、生と死とか、連鎖とか再生とか希望とかね、たぶんそういうことを描いてる。
でもそれを考えることは、重要ではない。
この映画を見て湧き上がってくる感情。
こういう、説明できない感情体験ができるものが、僕にとっては本当に大事な作品であって、それは「芸術」って呼んでもいいのかもしれません。

映画でも本当に心に残ってるのって、ストーリーじゃなくて、あるワンシーンだったりします。
それは人の顔だったり風景だったり、もっと漠然としたあいまいにしか思い出せない印象だったり。
説明できるものなんて、たかが知れてるんですよ。
説明できないものにこそ、価値がある。
『話の話』は、それをわからせてくれる、かけ値なしに美しい映画です。



この特集上映、12月からやってるそうですが、ぜんぜん知りませんでした。
ネットで検索しても、ぜんぜん出てこないし。
前回のブログをFBにアップしたのを見た友達が、教えてくれたんです。
そして、それを見てまた別の友達も知って、劇場へ行ってきたそうです。
SNSの力。
でももっとちゃんと宣伝してほしいな。
せっかくの機会を、見逃すところだった。

見れてよかった。

2017年1月12日木曜日

『この世界の片隅に』のポスターがダサすぎる

『この世界の片隅に』を見ました。
いい映画でした。
思ったよりずっとよかった。

内容や作品の魅力については、ちょっと検索でもすればたくさんの声があるので、書きません。
こんなに評判のいい映画も、なかなかないですよね。

ものすごい違和感があったことをひとつ。
それは、またしても宣伝について。
宣伝というか、ポスター。

このポスターのせいで、僕はこの映画への興味をなくしたし、信用できる友達に直接すすめられなかったら、死ぬまで見なかったと思います。

そもそも僕は、映画は大好きだけどアニメは見ません。
特に日本の最近のものは。
だって絵柄が好きじゃないから。
なんていうか、アキバ系?美少女ゲーム、オタク、ファンタジーとか、そういうキイワードが浮かんでくるような絵ばっかり。
目がでかくて黄色や水色の髪をして線が細くて制服ぽい衣装の、オタクやBLファンを連想させる絵柄。
攻殻機動隊やエヴァンゲリオンとか。
君の名は、もそう。
ああいうの、苦手なんです。
最近だと、電車で目にするいろんな各社広告にも、その手の絵柄が増えてる。
とても、はっきり言って、イヤです。

宮崎駿作品は、まあ悪くないと思います。
でも、絵にグッとくることはありません。
可もなく不可もない、分かりやすい絵柄としか思いません。
テレビアニメなら、単にストーリー説明のための絵柄として、それでいいと思いますよ。
でもせっかく映画館で見るなら、絵からも何かを感じたい。
って、思うと、日本の、少なくとも大きな映画館でかかるアニメには、まったく興味が湧かないんです。

アニメーションなんて、ほんとうなら実写よりもはるかに自由にどんな世界でも絵として描けるはずなのに、なぜかストーリーを説明する役目しかはたしてない。
これが絵画、つまり静止画なら、いろんな表現の作品があるじゃないですか。
べつに前衛やアングラじゃなくても、単純にモノをそのまま描くのではないもっと自由な絵が、あたりまえに存在しています。
アニメーションだって、そういうことができるはずなのに。
もったいない。

実写映画には、いろんな表現があります。
ストーリーがいいだけじゃなくて、絵づくりや演出からも感情が伝わってくる作品がたくさんあって、だから映画が好きなんです。
そういう作品と比べると、もうアニメは映画と同列には考えられない。
レベル低すぎ。
わざわざお金払って見に行きませんよ。


で、問題のポスター。
これを見て、ああいつものアニメの絵柄ね、じゃあ見なくていいや。
って思って、それでおしまいでした。
でも、見に行ってみたら、じっさいの映画の絵柄は、ここから受ける印象とはほど遠かった。
映画が始まってタイトルの出るまでの数分間、違うアニメの予告編かと思ってましたからね。

こだわった絵柄、というほどではありません。
基本的にマンガと同じ、線画に色を塗るやり方だし、やたら光を強調する流行の演出が多様されてたりもする。
でも、いまどきのアニメのものとは、違う。
ぜんぜん別の絵柄を挿入したり、テレビアニメではやないだろう演出もたまにあるし。
ストーリー説明のためだけの絵ではない。

そうわかってたら、これだけ評判のいい映画だし、もっと早く見にきてたかもしれない。
なんなんだあのポスター。
せっかくのいい作品なのに、あれじゃあちょっといい話で泣いてスッキリしましょうね戦争って怖いけど人間はピュアで愛って尊いね死んだらかわいそうだねハンカチの用意を忘れずにって感じの量産お約束映画にしか思えない。
わざわざこの絵をピックアップする宣伝担当の見る目のなさ。
ストーリーしか興味ないの?
絵柄とか作品の世界観とか、どうでもいいの?
お約束映画として宣伝して多くの動員を狙いたいの?
そんな志で作られた作品じゃないと思うんだけどな。
そもそも『この世界の片隅に』っていうベタなタイトルなんだから、相乗効果でベタベタになってよけいにダメじゃん。
もしかして、宣伝担当の人、映画見ないでタイトル情報だけでポスター作ったんじゃないの?
やるせない気持ちになりました。


結論。
なかなかいい映画です。
僕みたいな絵柄へのネガティブなイメージで避けてる人がいたら、ポスター破り捨てて見に行ってOKですよ。


ちなみにいままで見たアニメーションでいちばん好きなのは、ユーリ・ノルシュテインの『話の話』です。


ああこの絵を見てるだけで、胸がキュンとする!
映画でしか味わえないものがあるのが、映画なんですよ。


2017年1月10日火曜日

さらばひげ

ヒゲを剃りました。
実はここ3週間くらい、口ヒゲを伸ばしてたんです。

10月末に転んで口をぶつけて、上唇に少し痕が残ってしまいました(この事件もあらためてブログに書きます)。
そうだヒゲを伸ばしたらいいじゃん!かっこいいし傷も隠れるじゃん!と思いついたんです。

口ヒゲを伸ばすのははじめてです。
髪の毛と違って、ヒゲって伸びる人と伸びない人がいます。
すごく伸びるようなら、いろんなスタイルにアレンジできるだろうけど、そもそもぜんぜん伸びない可能性もあります。
どうなるかわからない。
まずは、やってみよう。

少し伸びてきたら、それまで生やしてたあごヒゲが邪魔に思えてきたので剃って口ヒゲだけにして、そうしてだいたい10日くらい経つとヒゲの人らしくなってきました。
でもどうしても似合うと思えない。
見なれないからか。
服によって悪くない日もあるけど、たいていは似合わない。

似合うって言ってくれる人もいます。
口ヒゲにしたことに気づかれないことも多い。
じゃあ少なくとも違和感がないってことだから、まあ悪くはないのかもしれない。
と思って家に帰って鏡を見ると、やっぱり似合ってない。
うーん。
もっと伸びたらいいのかな。

という調子で3週間たちました。
ヒゲの長さはもうほとんど変わらず、安定期に入ったようです。
どうやら、すごく長く伸びるタイプではないみたい。
残念。

口ヒゲという新しい世界に飛び込んでいけるかとワクワクしてたのに。
クルンて巻いたりストレートにしたり編み込んだり。
イカす口ヒゲさえあれば、どんな格好でもサマになるはず。
白シャツでも柄シャツでもメッシュのタンクトップでも。
ダリみたいに宇宙服着たりかぶり物に挑戦したりもできるし、きっと味わったことのない万能感が降ってくるはずだ!
なんて想像は、夢と終わったようです。

で、昨晩のライブで会った人たちにもう見納めだよ、って宣言してしまいました。
でも今日になっていざ剃ろうとすると、迷うんです。
せっかく伸ばしたのに。
ひと月あるいはふた月も経てば、もっと伸びるんじゃないか。
もうあきらめるのか。
新しいことをやってかないとダメだろう。

と、ひとしきり悩んで、この悩む時間が無駄だ、と思い直して、でもやっぱりもったいない気持ちがあるので、記念写真を撮りました。

そして、剃りました。
剃ったら、スッキリしました。
けっきょく、似合うかどうかよりも、気持ちの問題なんですね。
ヒゲがないほうが、なんかいい気分なんです。
似合ってても、気分がのらなければ意味がない。
そんな簡単な判断が、鈍らされていた。
ヒゲって恐ろしい。
いままでどれだけの男の人生を狂わせてきたことか。

もう当分、それこそ最低でも10年くらいは、口ヒゲを伸ばすことはないでしょう。
さらば。

2017年1月8日日曜日

コーヒーカップと自尊心

家でよくコーヒーを飲みます。
サーバーにドリップしてから、カップに移します。
たいてい同じカップを使います。
容量は標準的なコーヒーカップくらい。
マグカップみたいな形をしています。
大きさもちょうどいいし、ややムラのある水色で、デザインも気に入っています。
マグ感覚で別の部屋に手軽に持っていけるのもいい。

たまに、ちょっとだけ飲みたいな、というときがあります。
そうすると、このカップだと大きすぎる。
半分だけ注ぐのも、落ち着かないし。
そういうときのために、デミタス・サイズのソーサー付カップも持ってます。
持ってるんですが、最近は出番がへってきました。
カップではなく小さな湯呑みのようなものを、使うようになったんです。

めんどうなんですよ。
持ち運ぶには、ソーサーごと持たなきゃいけない。
そうすると、カタカタゆれて、こぼさないように気をつかいます。
ちょっと急ぐとすぐにソーサーにこぼれて、あとからふき取るハメになる。
テーブルに置くにも、ソーサー分の場所を取る。
洗うのも棚に戻すのも、カップとソーサーとふた手間かかる。

たいしたことでは、ないんですけどね。
それでも、ソーサーをセットするひと手間が、めんどうに感じてしまって、デザインはデミタス・カップの方が好きなのに、つい湯呑みのほうを手に取ってしまう。

ああ、これはよくない兆候だ。
なんでもラクなほうへ傾いていったら、よくない。
いまはまだいいけど、歳をとったら、きっとどんどんだらしのないことになる。
コーヒーカップだけじゃなくて、持ち物や服へのこだわりもなくなって、出かけるのもめんどうになって、なんでも後まわしにして、ゴチャゴチャした部屋にずっといるのがラクだ、と言ってそれで満足してしまうかもしれない。
そんな自分の姿を想像しても、ちっともワクワクしません。

ラクだ、ということを第一に考えるようになると、いろんなものが自分のなかから消えていく気がします。
たぶん自尊心と言ってもいい。
それがあるから自分が好きだと確信できるもの。

着るものや持ちもの、ことばや考えかた、進む道。
ぜんぶを、自分で選びたい。
ひとつひとつ自分の選択を肯定する。
小さな肯定が積み重なって大きくなって、自分自身を好きになれる。
自分を認めて尊敬できるようになる。
コーヒーカップひとつが自尊心につながっていく。

いけないいけない。
ひと手間かけて、デミタス・カップを使おう。

2017年1月4日水曜日

「上手い」と言われたらおしまいだ

「上手い」って言われるようになったら、ミュージシャンとしておしまいです。

一般の、というか、楽器や音楽にそこまでなじみのないお客さんから言われるのは、いいんです。
その場合は、「よかった」と同じような意味で、単純に感動を表す言葉として「上手い」って言うんでしょうから。

悲惨なのは、ミュージシャンから「上手い」って言われること。
「上手い」あるいは場合によっては「すごい」って、テクニックを評価する言葉です。
その人の演奏に接してテクニックがいちばん印象に残るって、もうそれは僕の分類では「音楽」ではありません。
楽器を使った曲芸をやってるってこと。
すげー!とは思うかもしれないけど、心には響かない。

そういうミュージシャン、けっこういるんですよ。
「ああ、かれは上手いよね」
「あの人メチャクチャ上手いよ」
みたいに言われちゃう人。

ほんとうにいいミュージシャンに対しては、
「あの人いいよね」
「素晴らしいミュージシャン」
「最高!」
とか、抽象的な表現が使われるはずです。

「俺はこの楽器については日本でいちばん上手い」って自分から言う人にも、会ったことあります。
かわいそう。
だって、彼は「いちばん上手い」ってことを誇らしげに言ってて、でももっと上手い人がいる可能性は、ゼロではない。
仮にいちばん上手いとしても、いずれもっと上手い人は出てきます。
陸上競技の記録だってどんどん更新されているように、楽器のテクニックも、100年前と比べたら格段にみんな上手くなってるんだから。

もし彼より上手い人が現れたらどうするのか。
こんどは、有名な人と演奏したとか、いくら稼いでるとかに頼ることになるでしょう。
音楽やってて数値で表せるのって、そのくらいだから。
そういうことばっかり喋るミュージシャンも、じっさいかなり多いですし。

そもそも何を根拠に上手い、って言うのか。
手が早く動くから?
楽器の音色?
リズムのバリエーション?
「上手い」という基準自体が、あいまいなものです。
ちなみに、その人は確かに上手かったけど、ぜんぜん感動はしませんでした。


もちろんこれは、僕の価値観の上で、ですけどね。
音楽は表現活動であって、心に触れたり、思いを伝えたりするコミニュケーション・ツールだ、という前提でのこと。
同じ「音楽」といっても、テクニックに重きを置いているミュージシャンもたくさんいます。
いかに高度な技術的なやり取りができるか、ということに快感を見いだし、お客さんもそれを楽しむという世界も、あることは知っています。
ただそれは、僕が「音楽」として聞いてきたものとは、あまりにも違いすぎるんです。

僕の考える「音楽」って、数値化も順位づけもできないものです。
どれだけ早く指が動くか、リズムや音程が正確か、音域が広いか、ということは、もちろんそうしたテクニックがあれば便利ではあるけど、でも突き詰めれれば、不要なものでもあるんです。
音楽に心が動かされたときって、この人上手いなー!なんてぜったいに思わない。
少なくとも僕はそう思ったことはいままで一度もありません。


僕より上手いミュージシャンはいっぱいいます。
その中には、あきれるくらいに中身のない演奏しかできない人もいます。
僕より上手くないミュージシャンも、いっぱいいます。
その中には、涙が止まらないほど感動的な演奏をする人もいます。

音楽って、そういうものです。


「上手い」っていうのは、「つまんない」「中身がない」と言われるのと同じこと。
そんなミュージシャンには、なりたくありません。


2017年1月2日月曜日

Facebook 再開します

あけましておめでとうございます。

Facebookから距離を置くようになって半年くらいたちました(『Facebook休みます』)。
また、ブログの投稿を再開することにしました。


ちょくちょく、言われるんですよ。
FBやめちゃったんですか?
ブログやめちゃったんですか?
哲平さんの投稿、好きだったのに。
って。

ブログは変わらず書いてるんですけどね。
それをブクマなりなんなりして読む人は、意外に多くないようです。
Twitterにはリンクを投稿してるんだけど、やっぱりFBの利用率が高いってことなんですかねー。

そもそもFBから遠ざかったのは、選挙の時にあまりにも不快な声が多かったことがきっかけです。
そのときは思いつかなかったんですが、不快な発言の多い人は、フォローを外せばいいんですよね。
それによって、その人の平常時の投稿も見れなくなって距離が開くことになるけど、そして一度フォローを外したらきっと再フォローする確率は低いだろうけど、しかたありません。

なので、もし僕からのフォローが外されてたら、何かを不快に思ったということです。
それは、その人をキライってことじゃなくて、ある投稿をたまたまのタイミングで不快に感じただけで、会って話せば前と同じように楽しい時間がすごせる場合がほとんどでしょう。
もし、フォローが外れてても、変に気にしないでほしい。
難しいかもしれないけど、気にしないでくれたら嬉しいです。

まあそれも今後の検討課題として、とりあえずFB再開します。
年末に会った人に冒頭のようなことを言われて、そう返事しちゃったんでね。
今年も有言実行でいきます。

ちなみに、たぶん僕のブログをいいっていう人は、ブログトップの右端のカテゴリーの中の「考えたこと」のエントリが好きなんだと思います。
FBに投稿していない間も書いてたんで、そこを読むといいかもしれません。

Bulletproo Musician シリーズも、翻訳を手直しして読みやすくなってます。新作はないけど。

今年も、よろしくお願いします。